小説

『白狐』杉蔵一歩(『運』芥川龍之介)

江戸の夜の町に白い化け狐が出て、人を襲うという噂がたった。
その体は人ほど大きく、口が耳まで裂け、目が金色に光っている。その牙や爪で傷つけられれば、三日三晩も高熱にうなされる。
「悪者を懲らしめに来るのさ」と言う者もいれば、「酔っぱらいが、野良犬に噛まれたのを大げさに言った戯言だ」と笑う者もいた。


「白狐に噛まれやしないか」と、ユキは不安な気持ちで一夜を明かした。
 その身を潜めていたのは、神社の社の陰だった。夫の勇吉と一緒にいられずに、ゆうべ家を飛び出した。行く当てもなく、足が向いたのが、子どもの頃に遊んだ神社だった。
 甲高く鳴く鳥の声が、誰もいない境内に響き渡っている。朝日の中で、桜の花びらが風に舞い、ゆっくり落ちていった。
 足音に振り返ると、鳥居をくぐって歩いてくる女が見えた。女は柳のように長細い背格好で、足早に歩いてくる。
「あんた、ユキさんじゃないかい?」
 女はユキの顔を見るなり、親しげに口をきいた。白いうりざね顔に、切れ長の目が笑っていた。
「どちらさん?」
「あたしは、サヨっていうの。あんたのお母さんも知ってるわ」
 母と同じ年頃の女だと、ユキは思った。母と知り合いなのだろうか。
「実は、母さんは……」ユキは口ごもった。
「あぁ、お気の毒にね。病で亡くなったんだってね。あれから、あんたどうしてたの?」
 サヨと名乗った女は心配そうに眉を曇らせた。
 ユキは言葉を失い、うつむいて長い睫毛を伏せた。
「つらいことがあったのかい?」サヨも切ない声になった。
 張りつめていたユキの心が、一気に緩んだ。そして、ぽつりぽつりと今までのできごとを話し始めた。

1 2 3 4 5 6