小説

『路地』千田義行(『とおりゃんせ(神奈川県小田原市や埼玉県川越市など日本各地)』)

「その路地の入り口はよく通る場所なんだけど、それほど注意深く見たりはしてなかった。あったかどうかも分からない、そんな感じの路地だった。ただ、暗闇の中でじっとその路地を見ているとなんだかこの世のものではないような、そんな気がした。そこに入ろうと思ったのは、もしかしたらキミのせいかもしれない」
金村はそう言うと、手に持ったニコンSをぐっと握りしめた。
どしゃ降りの雨は止みそうになかった。

※※

 その人が不意にぼろぼろ涙をこぼし始めたので、金村は思わず息を飲んだ。
(これは、いい画が撮れる!)
 と思った瞬間遠野は、なぜかカメラを止めた。
「すみません、落ち着いたらもう一度今のところ撮り直させてください。次は涙をこらえる感じで」
 今、遠野は東京山谷の貧困者の実態を記録するドキュメンタリー映画を撮影していた。
 主役の男性は、見た目には70か80くらいに見えた。日焼けと垢とで赤黒く色付いた顔面には、長く深いシワが何本も刻まれて、そのシワのせいで顔が上下にくしゃりと潰れているように見えた。Tシャツから伸びた両腕の皮膚は、ウロコのように角質が硬質化していて爬虫類のような不気味な光沢を放っていた。実年齢は50にも満たないのだと本人は言った。撮影を始めてもう3ヶ月になろうとしていた。
 男性は、遠野と金村につい気を許してしまったのだろう。撮影中、涙がこらえきれなくなったように見えた。
 落ち着くまで、とふたりは3畳と小さな流しだけの部屋から、狭くかび臭い通路を通って外に出た。出た瞬間、凝縮された空気がほどけたような開放感を感じた。
「どうしてカメラを止めたんですか」
 通路の途中からもうタバコに火を点け始めていた遠野は、肺一杯に吸い込んだ煙を一気に青空に吐き出した。まるで肺の隅々をタバコの煙ですすぎ流すように、それを何度か繰り返した。目は抜けるような青空に鋭く向けられていた。
「これ、参ったなあ」
 指を青い空に向けて遠野が言った。
「なにが、ですか」
「お前は、本当にセンスがねえなあ」急速に吸い尽くした吸い殻を足もとの側溝蓋の穴の中へ捨てて、遠野は続けた。「くら〜い貧困やってるのに、こう毎日毎日抜けるような青空じゃあ、雰囲気でねえだろ」
「そうですね」
 金村は、そう口では言ったものの納得はできなかった。それはすぐに遠野に伝わった。
「オマエ、最近生意気になってきたよなあ。いっぱしに監督気取りか」
 遠野の表情は、怒っていても柔和な笑顔を崩さない。
「どうしてとかぬかしたよなあ、さっき」2本目に火を点けて、遠野が言った。「どうしてだと思う」
「いえ、分かりません」

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