小説

『名に恥じぬ人生。』松ケ迫美貴(『寿限無』)

 今にして思えば、命名されたその瞬間が、私の人生にとって最上の、そして唯一の、幸福だったのかもしれません。
 私は父上と母上から受けた愛情を一度も疑ったことはありませんでした。それは確かに、疑う余地もなく、生を受けたその瞬間から、この身に注がれていたと私は確信しております。私はお二人の愛を一身に受け、それはもう元気にすくすくと育ってまいりました。
 しかし、そう、あれは七つの時でしたね。私があやまって川に落ちてしまったあの日、奇しくも親の愛は時として子どもを苦しめるものであると、私は悟ったのでした。
 母上の悲痛な声を覚えています。母上は、慌てふためき、必死に私のために人を呼んでくださいました。私は川に流されまいと一生懸命にもがきながら、その苦しい呼吸の中でもなお、母上の深い慈愛の念をしっかりと感じていたのでした。
 母上は言いました。
「だれか、助けておくれ! うちの坊やが、寿限無寿限無五劫のすりきれ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶら小路のぶら小路パイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が、溺れてしまったの!」
 薄れゆく意識の中、その声は川底まで届いておりました。まるで子守歌のように心地の良い音でした。生まれてからずっと呼ばれてきた名ではありますが、私にとっては子守歌であり、おとぎ話であり、そして人生の指標でもありました。
あの時に死んでおけばよかったなどと言うと、きっと母上は悲しむでしょうね。
しかし、私はたまに夢に見るのです。川底へ沈んでいく感覚と、水の中に響く母の声が夢の中でよみがえるのです。それは、私にとっては唯一の安寧のように思えました。
 次に目覚めたとき、私の目の前にあったのは泣き腫らした様子の母上と、渋い顔をした父上の姿でした。そこでもまた、私は確かにお二人の愛情を感じていました。しかし、それは今までとは少し性質が違ったのです。まるでこれまでの一切がまがいものだったかのように、すべてがそらぞらしいのです。そして、私は悟りました。お二人は、後悔していらっしゃるのだと。
 それから、多くのことが変わりました。私は寿限無と呼ばれるようになりました。私は自分の名前が好きでした。寿限無寿限無五劫のすりきれ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶら小路のぶら小路パイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助という名前は、私の誕生を喜んだ父上が、わざわざ高名な和尚様を尋ねて付けてくださったものです。いつまでも元気に長生きできるようにと願いの込められた、有難い名です。
 しかし、いつしかそれは愚かさの象徴のようになっておりました。あの川の一件以来、近所の子どもたちは、いえ、大人たちでさえ私の名前を面白がって口にするようになりました。私の名前を誰が早く、そして正確に言えるのか競い合うのです。その名の響きは、子守歌でもおとぎ話でもましてや人生の指標などでは全くなく、ただ無機質な雑音でしかありませんでした。
 私はあのような嘲りには一度も動じたことはございません。それは、お二人の愛情の前にはどうでもいいことでした。むしろ、私は私を嘲る彼らに同情すらしておりました。彼らが口にする私の名は、彼らの持つ名よりも何倍も長く、そしてその長さは愛情の深さをあらわしたものであると私は知っていたからです。

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