小説

『夏鶯』草間小鳥子(『見るなのざしき(新潟県長岡市)』)

 でも、と僕は思う。一番奥の座敷は、「ゴミだらけ」なんかじゃない。ここにいるのは、きっと……。ユイが首を振る。
「すべてを知ることは、幸せなことじゃないよ。例えば、熱いお湯に触れるとどうなるのか。危ない場所へ行くと、どんな目にあうのか」
 ユイは僕の手の甲を撫で、膝小僧に目を落とす。
「ハルくんのことが大事だから、『やるな』って言うんだよ。この世界のきっと半分くらいは、知らない方が幸せなんだよ」
 例え痛い目に遭っても、知りたいことはあった。でも、僕にはユイがいる。やめろと言われてもやりたくなるのは、自分のためだ。欲のために、ユイの言葉を蔑ろにすることはできない。ましてや、幸せを犠牲にすることなど。
 襖から手を離し、ユイの手をとった、その時だった。
「待って。子どもの声がする!」
 ユイが、僕の手を振り払って叫んだ。払われた手のやりどころに困りながらも襖に耳を当てると、本当だ。微かに子どもの泣き声がする。鼻をすすり、しゃくりあげる声。押し殺した涙声。何かがずしんと落っこちてきたように、胸が苦しくなった。あれは、僕だ。母さんがいなくなって、昼は膝を抱えて泣き、夜は枕を抱いて泣き、この先、いいことなんてひとつもない、と思っていた頃の。
「ハルくん!」
 襖を開け放ったのは、ユイだった。ちりちりと冷たい風が頬を撫で、梅の花びらがパッと散る。梅の木の根方でうずくまる幼い「僕」の元へ、とっさに僕は駆け寄っていた。足元でざくざくと雪が鳴り、吐く息が白い。涙であかぎれた顔を上げ、小さな僕は目を丸くしたが、かまわず抱きしめた。腕の中で幼い肩が震え、僕はひとつ咳払いをした。
「今は信じられないかもしれないけれど、聞いて欲しいんだ」
 腕の中の僕は、マフラーと揃いの毛糸で編んだニット帽をかぶっている。少しほつれた懐かしい網目に触れ、僕は続けた。
「必ず、いいことがあるから。そりゃ辛いことだってたくさんあるよ。でも、いつかまた、誰かを愛したり、愛されたり、できるようになる。この人と出会えて、共に時間を過ごして、幸せだって思える瞬間がきっと訪れるから……」
 すると、一陣のやわらかな風が吹き、梅の枝にやって来た鶯が高く鳴いた。お辞儀をするようにくるりと地面に降り立った時にはもう、鶯ではなかった。若草色のワンピースから伸びる、働き者の手。春の日差しのような笑顔。囁くような低くかすれた声が、どこからともなく聞こえた気がした。
「母さん」
 目の前が涙で霞む。あわてて袖で拭うと、視界が歪んだ。瞬きをすると、小さい僕も、母さんもいない。僕はただ、がらんと広い畳張りの座敷の真ん中に、ひとり突っ立っていたのだった。開いた障子の向こうに中庭が見え、花の終わった梅の木が見え、枝から飛び立つ鶯が見えた。
「声、聞こえた」
 空を仰ぎ、ぽつりとユイが呟く。
「あぁ。『よかった』って」
「私には、『ありがとう』って聞こえたよ」
 空はすこんと晴れ、にわかに夏の雲が湧くと、思い出したように蝉が鳴き始めた。待てど暮らせど屋敷の主人は戻らず、置き手紙はいつの間にか白紙になっていたので、日が暮れる前に僕らは屋敷を後にした。昨晩、屋敷の主人から借りたという若草色のワンピースを返した方が良いかユイは少し迷ったけれど、「洗って綺麗に仕舞っておいて、またいつか、会って返そう」と言った。
 日曜の高速道路はやや混んでいたが、気持ちは晴れ晴れしていた。窓を開け、ぬるい風に前髪を躍らせているユイに尋ねる。
「それにしても、どうして、『開けるな』って言ったんだろう」

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