小説

『大阪アルプス』香久山ゆみ(『天保山の故事(大阪)』)

「だーいじょうぶ。移動中ずっとマスク外せへんし。絶対一緒にごはん食べへんし。ゴールしたらすぐ解散するし。な?」
「……」
 そう言われるとそれはそれでなんかむかつく。
「それに、職場で8時間一緒に働いてんねんから、帰り道同行するだけやと、感染リスク変わらんで」
 ごもっともではある。結局、あまりにしつこい熱意に私が折れた。「絶対マスク外さないでくださいね」念押しして、定時ぴったりに揃って退勤した。
 大阪市内には八つの山がある。いずれも低山で「大阪八低山」とか「大阪アルプス」と称される。人工山や古墳だったりするので必ずしも登頂できるわけではないけれど。先月から仕事帰りにこつこつ登り始め、本日六、七山目の計画だった。
 会社のある難波から、バスに乗って大正区まで移動する。ここからスタート。初夏の日はまだ高い。バス停脇の千島公園内の昭和山を登る。もう少し早い時期に訪れていれば満開の紫陽花が見られただろう。整備された人工の山を登っていく。標高33m。息を切らせることもなく山頂に至る。今まで上った大阪低山のうちで最も眺望が良い。開けた景色から港や大橋が見渡せる。
「やったな。よし、記念撮影しよう」
 標柱の前で先輩が手招きをする。仕方なしにマスク姿の登頂記念ツーショットを撮る。「写真送るからLINE教えて」と言いながらスマホを操作している。「SNSとか上げないでくださいよ」「せえへん、せえへん」言いながらも、スマホに夢中である。やってられん。私はゆっくり景色を堪能することにする。
 ふと気付くといつの間にか隣に先輩が並んでいる。
「ええ景色やなー。元気出るわ、なあ?」
 なぜか景色ではなく、私のことをまじまじ見ている。
「そうですね。じゃ、さっさと次行きましょう。日が暮れちゃいますよ」
 先に立った私のあとを先輩が追いかけてくる。「もっとゆっくりせえへんかー?」なんて、私はもう十分堪能したのだ。
 西へ向かってひたすら歩く。10分もしないうちに先輩が音を上げる。
「なあ、まだ歩くんか?」
「まだまだです。先輩、営業なら歩くの得意なんちゃうんですか」
「電車も車もあるからそんな歩かへんし。暑―。バスとか出てへんのか」
「バスはありますけど、歩くんです」
「なんやそら」
 どっひゃあと大袈裟な悲鳴を上げる。うっさいなあ。だから一人で行くと言ったのに。極力公共交通機関は使わない。コロナ対策ではない。私の、私の心のためだ。私だって、好きこのんで仕事終わりにこんな馬鹿みたいに歩いたりしない。歩かなやってられへんから。
コロナ禍の異動はぜんぜん上手くいかなかった。皆マスク姿のためなかなか同僚の顔と名前を覚えられない。感染対策のため、当然歓迎会もなく、昼食時や休憩時間にコミュニケーションを取ることもできない。時差出勤やリモートワーク推進で、十分な業務引継ぎも受けられず、忙しく動き回る出勤者へは気軽に質問することも憚られる。自分で何とかするしかない。けど、自分の力だけでは限界がある。着任3ヶ月、思っていたほどのスキルを習得できず、落ち込んでいた。鬱々としたまま家族の待つ家に帰りたくなかった。それに、せめて体だけでもへとへとに疲れさせれば夜眠れるのではないかと思った。けれどそれも上手くいかない。だからせめて会社帰りに山を制覇するということを小さな目標にして騙しだまし日々をやり過ごしている。

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