小説

『大阪アルプス』香久山ゆみ(『天保山の故事(大阪)』)

「え」
「え?」
 何度か聞き返される。マスクをしたパーテーション越しの会話には未だ慣れない。慣れない場所だからなおさら。いい加減面倒になってぞんざいな返事をしたところ、ようやく耳に届いたようだ。
「なに、お前ひとりでそんなおもろいことしてんの」
 先輩が声を上げる。声がでかい。思わず口を滑らしてしまったことを後悔する。
「いいなー。おれも一緒に行きたい」
 話題を変えようとする私を無視して、先輩が身を乗り出す。
「だーもーちょっと、近寄んないでください。ソーシャルディスタンスですよ。席に戻って。ステイです」
 隣の席に座りなおした先輩は、しつこくいいなーいいなーと繰返す。わけわからん。何にも面白いことなんてない。平時なら陽キャでリア充な先輩の日常の方がずっと刺激に溢れているだろうに。新型コロナ感染症の世界的流行による自粛自粛の生活ももう二年目だ。一応ルールを守って生活しているらしい先輩だが、友人と会うこともできず、リモートでの飲み会にも飽きて退屈しているらしい。片や、コミュ障の私は普段から一人でいるのがふつうなので強いものだ。
「今日も仕事帰りに行くんやろ。おれも同行する」
「だめです。私は私のルールの中で行動しているんです」
 不要不急の外出は控えるべしというものの、政府の明確なガイドラインは存在しない。昼間の外食は問題ないのに、深夜営業は禁止。密を避けろといいながら、毎日の満員電車は黙認。だから私は自分で定めた感染防止のルール内で行動する。一人であっても外食はしない。食事を伴わない誘いであっても人とは遊びに行かない。不特定多数と一定時間以上同じ空間にいないようにする。……各業態で十分な防止策をとっているのは理解している。が、基礎疾患のある高齢の親と同居しているので、万が一のリスクを避けたいのだ。ストレスの溜まるルールだが、一方、人気のない解放された場所に一人で行くことはOKとしている。例えば、会社帰りに電車に乗らずにひたすら歩く。三時間掛けて家まで歩いて帰る。もう地図アプリなしで帰宅できるほど歩いた。同じ道を歩くのにも飽きて、最近は会社帰りに登山をしている。――という話をしたところ、先輩に絡まれたのだ。
「今日のルートなんて?」
「山登って、渡し船乗って、海を見る。です」
「なんやねんそれ。めっちゃおもろそうやん。頼む、連れてってくれ」
「コロナ対策で一人行動を徹底しているからむりです。人と一緒だとつい軽く食べよーとかなっちゃうんで」
 久々の先輩はなかなかしつこい。この四月に営業部に異動になり、新人のころ世話になった先輩に再会した。コロナ禍で外回りや接待が減ったという先輩はよく私に絡んでくる。前職から畑違いの部署に異動してきた私はそれどころじゃないんですけど。リモートワークを推進しているため、事務室に人は少ない。前任者から引継いだ資料はデータ化されていないものも多く、私はのこのこ毎日出勤している。担当で同じ資料を共有する先輩も災難だ。手ぇ空いてるからなんか手伝おうか? と、データ入力に協力してくれるので大変ありがたくもあるが。

1 2 3 4 5