小説

『会いたい人』春野萌(童謡『赤とんぼ』)

 ある時から、僕はさや姉に対してそっけない態度をとるようになった。なんだか気恥ずかしくなってしまったのだ。だんだん関係が薄れていって、僕が中学に上がるタイミングで引っ越してからは道端ですれ違うこともなくなった。さや姉の訃報を知って、彼女との最後の日を思い出そうとしたけれど、それがいつだったのかすら見当がつかなかった。


 お線香をあげてさや姉のアルバムを見せてもらう。目に焼き付けようとしたけど消えてしまいそうだったから写真を撮らせてもらった。それからお土産をもらって、駅まで歩いて、胸にできた空白と向き合えないまま電車に揺られた。柿の入った紙袋の重みだけが唯一現実的だった。

「大好きだったはずなのに、ひどくかすんでいて他人の記憶をのぞいている気分なんです。それが悲しくてもどかしい」
村松さんは何も言わずに耳を傾けてくれた。心の底にたまったものを吐き出すように言葉が止まらなかった。
「幻でもいいからさや姉に会いたかった。直接会うことができたなら、やっと実感できる気がしたんです」
 僕こそ初対面なのにすみません、と謝ったら「分かるよ」と返ってくる。「私だって幻でもいいから会いたいもん」と言った彼女も切実そうに見えた。


 僕たちはしばらく無言のまま立っていた。「そろそろ帰ろうか」と村松さんが口を開く。僕もうなずいて踵を返そうとした時だった。


静かな空にかすれたメロディーが流れる。「夕焼けチャイムだ」と村松さんが呟いた。

「懐かしいね。これ、なんてタイトルだっけ」
「……赤とんぼですよ」

 胸からじんわり何かが広がっていく。僕の街にも流れていた曲だった。

 
 僕が何かにいじけて家に帰らなかった日だ。オレンジ色に染まる公園にさや姉が迎えに来て、一歩も動かなかった僕を負ぶってくれたのだ。

「ねぇ、茜君。この曲なんていうか知ってる?」
 僕は誰とも口をききたくなくて、何も答えなかった。
「赤とんぼだよ。そのうち教科書に出てくるかもね」
 さや姉は何度も立ち止まっては「よいしょ」と弾みをつけて体制を整えた。
「ねぇ、私たち赤とんぼの歌みたいだね。茜君が大人になったら、今日のことを思い出すのかな」

 結局僕は最後まで口を閉ざしていた。でも、さや姉の背中越しに見たオレンジに包まれる世界と、流れる赤とんぼのメロディーが優しくて涙が出そうだったんだ。

 
「きれいな曲だね」と村松さんが呟いた。僕はしばらく喋れなかった。目が熱くなって、胸が苦しくて、ギュッと拳を握った。

 
***

 
 鮮烈なオレンジの中で僕たちはまたバスに乗って肩を並べる。何度も目をこすっていたら、村松さんが僕の頭にキャップをかぶせてくれた。「お金を返すまで担保として持っていて」と言うので小さくお礼を言うと「茜くんは小顔だね」と笑った。よく見ると、村松さんの顔はさや姉とは少し違った。別人なのだと改めて思った。
 村松さんと帰りの道を惜しむようにお互いの話をした。思い出したさや姉の話をすれば、彼女もまたゆきちゃんとの思い出を語った。口にすると過去が色を取り戻してみずみずしく見えた。
「1個、お裾分けです」
「赤くてきれいだね」
 村松さんが柿の実を持ち上げて目を細めると、1つ分だけ紙袋が軽くなる。
 かすかに開いた窓から入り込んだ風が、爽やかに僕らの間を通り抜けた。

1 2 3 4 5