小説

『会いたい人』春野萌(童謡『赤とんぼ』)

「茜君が言ったんじゃない」
「そうですけど。僕たち初対面ですよ」
「それを言うなら茜君だってお金貸してくれたでしょ」
「それもそうですけど」
「茜君、いい子だから。冷やかしだったら怒るけどね」
 常識人なら辞退すべきだった。それでも、僕は彼女が迎える先をもう少しだけ見ていたくて、一呼吸置いて軽口を叩いた。
「大まじめですよ。村松さんが無事にたどり着けるか心配なので」
「そっちかぁ」
 戯言をどう受け取ったのか分からないけれど、それ以上理由を聞かれることはなかった。コーヒーを飲みながら他愛のない話をする。現実味がなくふわふわした時間だった。

 充電が終わると村松さんの乗車履歴を消してもらうために駅へ戻る。それからバスに乗るというので停留所まで歩いた。スマホを取り戻した彼女はパワフルだった。乗車時にかざしたスマホが「ピッ」と鳴れば、僕の方を振り向いて誇らしげに笑った。とても眩しかった。
「どこで降りるんですか?」と聞くと「後で教えるからゆっくりしてて」と濁されてしまったので、彼女を信じて身を任せる。静かな車内では自然と会話が減った。気づけば彼女はまた寝ている。見つめると、くるりとカールした睫毛も、キャップからはみ出た髪も、窓から差し込む日に透けて美しかった。次第に眠気がやってきて僕も目を閉じる。今朝は早起きをしたのだったと意識を手放す前に思った。

「茜君」

 名前を呼ばれて目を開けると、オレンジ色の世界が広がっていた。すぐ先によく見知った少女が立っている。
「さや姉」
 彼女の元へかけていきたかった。それなのに体が動かない。足が重くて一歩も動けないのだ。
「先に行ってるね」
 少女はふわりと身を翻して軽やかに歩いていく。
「待って!」
 僕は一歩も踏み出せずただ声だけ張り上げた。置いて行かれると思ったらとても悲しかった。
「さや姉!」
 悲痛な声すらも強烈なオレンジの中に消えていく。僕はついに重みに耐えきれずしゃがみ込んだ。どうせ追いつけないのならせめてこのまま暗闇がこなければいいのにと思った。

「茜君」

 再び呼ばれて目を開けると、バス特有のにおいが鼻についた。

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