小説

『泡沫』白川慎二(『蜘蛛の糸』)

「いいね。俺、強いよ」
 あの後、彼はカーテンの隙間から細く差し込む朝焼けの淡い光で目覚めた。恐る恐る階段を降りていくと、母親が、
「おはよう」
 と台所でベーコンを焼きながら、こちらに背中を向けたまま挨拶をし、父は新聞の乾いた音とともに、今日は早いんだな、と独り言みたいにそれだけを言った。ベーコンとパンの香り。スズメの潤んだ鳴き声。食卓には朝日が満ちて、バターナイフも牛乳の面も光っていた。静かで、彼が不登校になる前に幾百回も繰り返されてきた朝の風景にとてもよく似ていた。
 彼はどんどんと色が満ちていく画面に熱中するふりをして考える。
 もし、あの朝、誰かがあそこに何かを一つ加えていたら、と。母がかすかな溜め息を吐いたり、父が「せっかく起きたんだから、朝ご飯を一緒に食べなさい」と告げたり、あるいは彼自身がすぐに踵を返して自室に引き揚げようとしたりしたならば、膨れ上がった水風船に針が触れたときのように、誰かの何かが炸裂していたかもしれない。けれども、そうはならなかった。彼はあたたかな牛乳を飲む間、そこにいたし、母も父も、そんな彼に安堵しているように思えた。結局、彼は新しいコントローラーを買わなかった。
「はい、俺の勝ち! お前、言うほど強くないじゃん」
 おかしいなあ、と彼は笑いながら、コントローラーを置く。もう一回やろうぜ、今度はハンデ付けてやるからさ。友人が誘う。
「やめとく。これ、もう一生分やったし」
 彼が断わると、友人は残念そうに、一人で画面に向かう。ゼリー状の生き物がどんどんと落ちてきてはつながり、泡沫のように消えていく。友人に断ってお手洗いに立つ。小用を足しながら、眼前の小さな窓の隅にぼんやりとした蜘蛛の巣がかかっているのを、彼は見ている。

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