小説

『乾いた水槽』和織(『夢十夜(第八夜)』)

『初回無料 すぐにご案内できます 美容院GOLD FISH』
 ビルの前に置かれたA看板にそう書かれているのを目にして、浩太はツイてるなと思った。ちょうど、そろそろ髪を切りたいなと思っていた。今日は営業先から直帰になって、時間を持て余していたところだったのだ。早速二階へ上がり、美容院の扉を開いた。
「こんにちは」
 カウンターに立っていた女性が、無表情でそう言った。その黒いタートルネックを着た彼女を目にして、浩太は固まってしまった。艶々のロングの黒髪に、漆黒の瞳。物語の中から間違ってこちらへ出てきてしまったような、かぐや姫ってこんな感じなんじゃないか、というような雰囲気。黒と無表情が引き立たせるその美しさに、時間までもが見とれ、彼女の周りでだけ、進みを遅くしているように感じられた。
「すぐにご案内できます」
 黙っている浩太へ、彼女はまたも無表情のまま、風鈴の音色のような声を鳴らす。
「あ、はい、あのお願いします」
 思わず目を逸らして、俯き気味にそう言った。しかし次に聞こえたのは、男の声だった。
「こんにちは」
 浩太が顔を上げると、目の前に白い服を着た背の高い男が立っていて、にこやかに浩太を見下ろしていた。男は浩太と目が合うと、彼の腕を取り、引っ張るように店内へと誘導する。入って右手にシャンプー台、その向かいにカット用の椅子と鏡が四つずつ並んでいて、店の奥に、大きな窓があった。
 店内には他に、赤いワンピースを着た線の細い女と、白に赤と黒の斑模様の入ったカットソーを着た、ぽっちゃりとした女がいた。二人とも、客ではないようだった。つまり現在この店の客は、浩太ただ一人ということだ。白い服の男は浩太のバッグとジャケットをするりと取り上げると、彼をシャンプー台の椅子へ座らせた。
「僕は白と言います」
「シロ、さん」
「はい。お名前を窺ってもよろしいですか?」
「あ、佐々木です」
「佐々木さん、よろしくお願いします。今日は暇だったので、お客様がいらしてくださって嬉しいです」
「え、ああ、そうですか。お願いします・・・」
 言っているうちに椅子の背もたれが倒され、浩太の顔にタオルがかけられて、視界が遮られた。それからこちらへ近づいてくるヒールの足音がしたかと思うと、そのすぐ後、「少々お持ちください」という男の声が聞こえ、彼らが遠ざかっていくのを感じた。離れた場所で、何やら会話が繰り広げられているようだった「ズルい」とか、「譲らない」とか、「ああいう堅実そうなのが」とか、「名前だって佐々木だよ?」とか、あんまり聞かないほうがいいなと思えるような言葉がちらほら聞こえた。やっと戻ってきたと思うと、男は「お待たせ致しました」という言葉と共に、何事もなかったようにシャンプーを始めた。なんだか落ち着かない店だなと思ったが、何せ初回無料なんだから、と浩太は自分に言い聞かせた。

1 2 3 4