小説

『乾いた水槽』和織(『夢十夜(第八夜)』)

 シャンプーは普通だった。カットも無事に進んでいる。しかし担当してくれているその男に、正直浩太は戸惑っていた。大きな手が、何というか、ネチッこい。そういう表現しかしようのない感覚がした。やたらと耳元で話すし、笑顔に圧がある。自分に対する明らかな好意、アピールだと感じる。美容師だし、その可能性は低くない。そう思うと、浩太はちょっと気が重くなった。ストレート領域の中で平凡に生きてきてしまったので、こういうのは初めての感覚だった。時代について行くにはこれも経験か、なんて考えが勝手に浮かぶ。もう二度とここには来ないだろうなと思いつつ、ときどき、掃除をする黒いタートルネックの女性が鏡の中に映り込むのを垣間見ると、その考えが揺らぐ。
「今日は、お仕事だったんですよね?」
 櫛で髪を撫でながら、男が言う。顔が近くて、浩太は彼から大幅に目線を外さなくてはならなかった。
「ああ、はい。たまたま、時間ができて・・・たまたまここを見つけて。ちょうど切りたいと思ってたので」
 自分のことは極力話したくなかったので、ふわっとした答えで切り抜ける。
「それはラッキーでした。僕たち、ここでは月曜日しか働いていないんです」
「え、そうなんですか?」
「はい。本来この店、月曜は定休日なんです。それで僕らが、月曜だけ店舗をお借りしているんです」
「美容師が副業なんて、すごいですね。普段お仕事は何をされてるんですか?」
 男はにっこりと笑って見せてから、こう言った。
「水の中にいます」
「・・・は?え、あ、水泳教室、とか?」
「このビルの隣に、熱帯魚ショップがあるんですけど、わかります?」
「熱帯魚ショップ・・・ああ、あれ、そうなんですね」
「僕ら普段はそこに居るんです」
「ああ、熱帯魚の販売ですか」
「いえ、売られる方です。といっても僕らは例外なんですけど」
「・・・・・はい?」
「水槽に入ってるんです。僕と、今ここにいる他の三匹が一緒に、同じ水槽に」
 男は言いながら淡々とカットを続ける。彼の話は全員に聞こえているだろうに、誰も反応しないので、浩太はたった一人でそのジョークにどう立ち向かおうかと、冷汗が出そうだった。しかし男が話を続けるので、気まずいまま黙っていることができた。
「例外っていうのは、僕らは売り物じゃないんです。オーナーに餞別された観賞用の魚で、非売品の水槽に入れられています。だからこのままだと、一生あの店を出ていけないんです。それでこうして、自分たちで飼い主を探している訳です」
「へ・・・ぇぇぇ」
 浩太には、スッカスカの声を苦笑いでかろうじて絞りだす、というのが精一杯だった。不器用だし回転の早い方ではないので、上手い返しができたことなど、人生の内で一度もない。ハードルが高すぎて、これは何の試練なのだろう?と探る必要のない森を思考が駆け巡る。
「そこでご相談なんですが、佐々木さん、僕を飼ってもらえないですか?」

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