降って来る思考を消すために、彼はテレビとの距離を詰めた。すると、その目の前に、つうっとお尻から糸を垂らしながら一匹の小さな蜘蛛が降りて来た。彼の視線はテレビから引き剥がされ、蜘蛛に注がれた。蜘蛛をティッシュで包み、潰してゴミ箱に捨てようと算段した。けれども、なぜか立ち上がらずに、眼だけを動かし、蜘蛛がゆっくりとなめらかに糸を伸ばし続けるのを見ていた。やがて蜘蛛は、彼の手の甲にそっと降り立った。金縛りが解けたように、彼はあっと声を上げ、とっさに手で振り払った。その拍子にコントローラーは手の平からすっぽりと抜け、床の上で二度跳ねた。蜘蛛がいなくなったことを確認した彼は、コントローラーを拾い上げて、何事もなかったかのようにゲームに戻ろうとした。けれども、先程の衝撃で壊れてしまったのか、ボタンが一つ反応しなくなっていた。強く押し込んでみても、やはり駄目だった。明日、新しいものを買いに行こうと決め、リビングにある貯金箱を取りに階段を下りた。
リビングは真っ暗で震えがくるほどに冷えていた。手探りでスイッチを押した。二三度、細かい明滅を繰り返した蛍光灯が、ソファーに横になっている母親を煌々と照らし出す。寒いのに、タオルすら掛けないまま部屋着のままで母親は寝ていた。彼の頭に、母親は死んでいるのではないだろうかという想像が駆けた。それは母親が目を眇めながら寝返りを打つまでの短い間のものだったけれども、心臓に冷たい水を注ぎ込まれるような感覚を味わうには十分な時間だった。先程、何度となく消えたいと思っていたにもかかわらず、彼は母親の死の予感に動揺する。母にブランケットを掛け、逃げるように二階へ戻ろうとした時、母親が口を開いた。
「疲れちゃったね」
そして、どこを見ているのか判然としない目を細めて、泣き顔のような微笑みを浮かべた。
「ごめんね、飲みすぎちゃったみたい。もう、寝室へ行くから、したいことしてていいよ」
母親はそれだけ言って、立ち上がろうとした。彼は、べつにいいよ、と一言低い声で言い残して、リビングを後にした。階段を昇り、自室のドアを閉め、布団を頭までかぶった。
階下では母の足音がして、ガタンという大きな物音がした。父親が寝室から出て来る気配もあった。父の大きな声には怒りが満ちている。何を考えているんだ。しっかりしろ。階下から父の言葉が切れ切れに届く。彼はそれらが耳に入らないように両手に耳を宛てがい、自分の頭が痛くなるくらい力を込めて押さえる。
飲みすぎちゃった、と言いながら母親は、ちっともお酒臭くはなかった。あのとろんとした表情。母親は睡眠薬を沢山飲んだのかもしれない。もしかすると死のうとしていたのだろうか。この考えは、先の母親が死んでしまったのではないかという想像以上に重くのしかかり彼を圧する。母親が病院へ行って薬を処方してもらっていることを彼は知っていた。
何も分からないし、考えたくもない。なのに、ゲームの世界へ逃げることはできない。両手を耳から離すのも怖い。朝が来ると思えないほどに、長く深い夜だった。
それでも、いつしか昂った心は鎮まっていき、束の間の救いである浅い眠りが彼を訪う。
やがて、彼は、親戚の勧めで大学受験の資格を取得するための学校へ通い始めた。無事、資格を取り、大学受験にも通り、大学生となった。勉強は相変わらず苦手であるが、自分の好きな文学の授業なら身が入ることが分かった。ある日、友人宅へ遊びに行ったとき、テレビゲームが置いてあった。ゼリー状の生き物をつなげていく、あのゲームソフトもあった。友人が「これ、実家から持って来たんだ。やろうぜ」と誘った。彼は笑いながら言った。