小説

『仏斬り』N(『恩讐の彼方に』)

 住職との対話があって数日、一九郎は考え、出家の道を進むことにした。許嫁を非道に奪われたとはいえ、相手の男を斬って金を持って逃げ出したのだ、これは許されがたい罪であったし、一緒に逃げた静もあっけなく世を去ってしまった。その静の霊も弔って生きていかねばならないと思ったのだ。
 住職は、一九郎の目を見て、その思いを見定めて、了元という名を下された。「ここを出て旅に出なさい」と放された。それは、この場所で安楽に仏道の修行をするのではなく、自らの目で見て身をもって修行に明け暮れるようにという指導の意味があった。

 了元はそれから幾年の旅を重ねながら旅の僧として行き交う人に接し、可能ならばどのような寺にも立ち寄って教えを請うた。彼にとっては、全てがありがたい教え、全てが修行であった。
 了元は旅に出て三年ほどが過ぎたとき、ある村の山の外れに荒れ寺があるのを見つけた。そして、その寺の境内の裏手に大きな岩肌の露出した崖があるのを見た。了元は、寺自体より、その巨大な岩の姿に胸を打たれ、ここに住み、この岩に仏様を彫ろうと直感した。
 岩は高さが、人の背丈にして五六人分はあり、幅も三四人分には成る一塊の見事な岩だった。何もせずともそれだけで美しいと思えるものだった。
「わしは、この岩に仏様を彫り、それを終えることをわしの修行の大願としよう。それが出来たときは……」
 了元の心の中に、初めて、自らやるべきことがふつふつと湧いて来るのが分かった。

 荒れ寺に住み着いた旅の僧がいる、と村ではしばらく噂になった。それは、村人からは訝しがられたが、了元が寺の建物を掃除し磨き直し、むかしより立派かと思われるほどにしたのを見て、みんなに見直された。「あれは本気だ」と感心された。それで、村人は了元に、事足りるだけの食べ物を持って行くようになったし、何かにつけて手助けした。了元も僧として出来ることは何でもした。信頼関係が生まれていった。
「了元様は、この大岩に仏様を彫り込むおつもりなんですか」
「ああ。わしの人生の大願じゃ」
 村人は、いかにも偉い大願に感心もしたが、手伝いはいらぬ、一人でやり抜くという了元の考えを「少し大きすぎる願いじゃなかろうか」とも思っていた。
 月日は流れた。もう了元は「ぼろ寺に居ついた流れの僧」などとは誰も思っていない。村の大事な人間になっていた。了元は、変わらずに村人のために尽くした。もちろん、大願の仏像も着々と彫り続けていた。岩に足場を掛け、雨の日風の日、暑い日寒い日、大岩に挑むように彫り続けていた。
 だが『あの事件』以来二十年が近づき、了元も四十才後半に差し掛かるころ、にわかに「どうも体の具合が……」と不調を感じるようになった。それでも彼は誰にそれを口に出すことはなかった。

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