「あたしだって『人間ドッグ』なんて知らない」
わけがわからなかった。ではなぜそんなことを履歴書に書いたのか。
「母に助言されたの。とにかく犬に関係したことを書きなさいって。それだけで通じるからって。なかなか思いつかなくて、それで苦し紛れに『人間ドッグ』って書いたの。坂田さんもおそらく同じ。『猿まね』なんてしない。ただ、そう書いておけばどんな企業の入社試験にも合格できるって言われた」
きぬは何を言っているんだろう。認知症にでもなってしまったのか。
「ボケたって思ってる?」
「いや……」
勇児はきぬの瞳の奥を覗き込んだ。これは彼女の冗談なのか。
「私は正気よ」
「でも、そんな馬鹿げたことが……」
「まさか御自分の成功をあなただけの手柄とは思ってはいないでしょう?」
「どういうことだい?」
「尾谷勇児のままだったら出世しなかった。2人して生田の家に入ったから素晴らしい人生が送れた」
「確かに生田の家は資産家だったから色々と助かったけど……」
「そうじゃない。わからない? 長男は正治、長女は紅葉、二男は洋司……。まだわからない?」
全くわからなかった。いったいそれが「人間ドッグ」とどういう関係があると言うのだ。きぬは途方に暮れる勇児を見て静かに笑った。
「この国では昔からある一族が大切にされている。彼らの苗字は『い』、『さ』、『き』で始まり、名前の最後は『ぬ』、『る』、『じ』で終わる。私の結婚前の名は何?」
「井坂きぬ……」
「今のあなたは?」
「生田勇児……」
「生田の『生』の字は『き』とも読むわよね。わかった?」
「で、でも、そんな名前はありふれている」
「そう。だから肝心なときにはそれとなく相手に伝える」
「『人間ドッグ』、『猿まね』……」
「そう。子どもたちの受験や就職のときも必ず『雉も鳴かずば打たれまい』と記入するように伝えておいたのよ。だからみんな幸せでしょう?」
勇児は今までの積み上げてきた人生が足元から崩れていくように感じて、思わずベッドの手すりを掴んだ。
「だったら私が今までやってきたことは……」
「もちろん、すべてが名前のせいではないわ。あなたの力でやり遂げたこともあるでしょうね。でも、名前の後押しがなければうまくいかないこともたくさんあったはず」