小説

『恋人がゾンビになってしまったら』乘金顕斗(『山月記』)

 ある日の夜、とうとう私は感情が抑えきれなくなって、ゔゔ―、と唸る修ちゃんに、「ねえ、修ちゃん」と声をかけた。「聞こえてる?」ゔっ、ゔゔ~、と唸る修ちゃんが、「いつまでゾンビでいるの」こっちを見る。「撮影、できないんでしょ」修ちゃんはペンを持って、ノートに何かを書いた。修ちゃんとは、筆談でしかコミュニケーションが取れなくなっていた。「もうやめようよ」と言う私に、震える手でノートを手渡してくる。「俺にはこれしかないから」と書いてある。「これしかないって……」と言っている間に、修ちゃんは背を向けてずるずると歩いて離れる。「これしかないってなんなの。今のこのこれはなんなの」私は泣きながら言った。「こんなのもう、修ちゃんじゃないよ」修ちゃんの体がびくっとなって、固まった。「修ちゃん、お願いだから帰ってきてよ……」修ちゃんは悲しそうな目で、「マ、リ、ちゃん……」と掠れた声を出して、それが本当に、久しぶりに修ちゃんが発した言葉だったから驚いて「あっ」と声がでて、私も固まってしまった。同時に、初めて修ちゃんが、マリちゃん、と名前で私を呼んだときのことが思い出されて、その時に、「なんか照れくさいね」と言ってはにかんだ修ちゃんの表情が浮かんで、その残像が、今の修ちゃんと少しずつ重なり、やがてぴったり合わさって、消えた。目の前には、口をぱくぱく動かしているゾンビの修ちゃんだけがいて、さっきマリちゃんと言った後、言葉が出てなくて泣いている。その姿を見てたら、私も涙が出た。修ちゃんはもう、どうしたら元に戻れるのかが分からないのだ。

 コロナで活動が制限されていた劇団ヒッチハイクであったが、無観客公演をすることが決まった。どうやっても赤字にしかならないようだが、それでもいいという覚悟が高柳くんにはあった。私たちにも、ぜひ配信を見て欲しいと連絡があった。
配信当日、チケットは思いのほか売れて、数百人が高柳くんたちの公演を見た。タイトルは、「もしかして、好きな音楽似てたりする?」だった。
「修ちゃん、はじまるよ」声をかけて、私は二人が見えるようにパソコンを置いた。
 話は、大学生の二人の男子が、音楽がきっかけで意気投合し、音楽バンドを組んでから解散するまでの、ほんの短い期間の話だ。二人の青春物語かと思えば、二人が打ち込んだバンドの努力や葛藤、あるいは音楽性の違いみたいなものは一切描かれず、終始他愛ない会話を中心に、関わる人間が徐々に移り変わり、様々な事件が起きている間にもうバンドは解散している、という内容だった。独特の会話など、高柳くんの持ち味が存分に発揮されながら、これまでの作品にはない切実さまで備えた意欲作だった。そしておそらく、この話は修ちゃんと高柳くんをモデルにしたものでもあった。
 劇が終わり、高柳くんが挨拶をする。
「この公演を見てくださった皆様、それから大切な友人へ。ありがとうございました。苦しい日々が続きます。でもきっと大丈夫。また会える日まで、僕らはここで待ちます」
 配信が終了し、画面が暗くなって、液晶の中には涙目の私と、白目を剥いて苦しそうに呻くゾンビが並んでいた。いや違う、ゾンビだから呻いているんじゃなかった。修ちゃんが泣いているのだった。
 その夜、修ちゃんは家を飛び出し、事件を起こした。ゾンビ姿で徘徊中、通りがかりの人に「うわ、ゾンビじゃん」と指をさされ、何回か小突かれもしたのがきっかけで、その人に襲い掛かった。そして反撃に合い、ボコボコに殴られて救急搬送された。襲われた男は、最初はただのコスプレかと思ったが、次第に本物のゾンビに襲われているようで恐ろしくなり、自己防衛で修ちゃんを殴り続けた。何度殴られても修ちゃんは起き上がり、男の手や足にしがみついた。それは修ちゃんが見せた最後の、役者魂だった。

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