小説

『弓を捨てた狩人太郎』橘成季(『古今著聞集』)

 目には涙をためていた。
 もう恐怖の色はなく、すがりつくような思いだけが感じられた。
 太郎の心に、臨終の床にあった母の姿がよみがえった。
 しばらく太郎を見つめていた母猿は、キキッ、と短く叫ぶと、急に体の力が抜けたかのように、どさりと地に落ちた。
 その胸に抱かれていた子猿は、キー、キーと、母親の体をゆさぶっていたが、動かぬと知ると、太郎に精一杯の憎しみの目を向け、ギッギーと声高く叫んだ。
 そして脚をひきずりながら、何度も母の姿をふりかえって森の中へ消えていった。
 母猿の死体の前で、太郎は動けずにいた。猿の目は半開きのまま宙を見つめ、腹には矢が突き刺さったままだ。
 もっと生きて、子を愛したかったであろう母を思った。もっと母に甘えていたかったであろう子の気持ちも感じた。
 それまで殺してきた、たくさんの動物たちのことも思い出された。
 追いつめられて、恐ろしさから涙を流していた鹿。
 子を守ろうとして、こちらに突進してきた熊。
 様々な動物たちの、痛みと苦しみの表情が重なった。
 夕陽が森を赤く照らすし、風がゴォーと音をたて、木の葉が舞い上がった。その中に立ち尽くしていた。
 葉が一枚、頬をピシリと打つと、ようやく我にかえった。
 矢を抜き、小刀で樹の下に穴を掘ると、母猿を埋めてやった。
 そのちいさな墓の前で手をあわせると、生まれて初めて狩りをして泣いた。
 風に運ばれた枯葉が何枚か、からからと音をたてて盛った土の上に落ち、また飛び去っていった。

 大岡村の狩りの名手太郎は、その後、二度と弓矢をとらず、山にも入ろうとしなかった。

1 2 3 4 5