小説

『弓を捨てた狩人太郎』橘成季(『古今著聞集』)

 藪を揺らして、山葡萄の実をあさっていたのは猿だった。森の木から木へと飛び移る姿も見えた。彼らは群れを作り、餌を求めて山中を移動している。
 普段ならば、猿を弓で射ることはない。猿の肉は食わないからだ。
 だが、その日は獲物が見つからない上に、やっと見つけた猪も逃がしている。
 肉は食わないとしても、猿の頭は蒸し焼きにすると、「猿頭(えんとう)霜(そう)」という漢方の薬にはなる。
 何にしても、手ぶらで帰るのは避(さ)けたかった。
 慎重に谷の底へ下った。
 山の中腹に、ひときわ高くそびえる欅の大木。
 その大枝の二股に座る一匹に狙いを定めた。山葡萄を房ごと持ち込んで無心に実を頬張っている。
 岩場を登った。
 途中、猿が何かを感じたのか、こちらに視線を向けた。太郎は身をひそめ、自分の気配を消した。すると、猿は安心したかのように、再び紫色の実をむしって、うまそうにモグモグと口を動かし始めた。
 およそ十五間ほど(約二十七メートル)に迫ると、弓に矢をつがえた。樹の二股へ向け、上向きの角度で矢を放(はな)った。
 今度は、はずさなかった。矢は、猿の腹に見事に命中した。
 ギギッ、ギャギャーッ。
 悲鳴が響くと、森や藪のあちこちから、ギィーッ、ギィーッと、甲高(かんだか)い警戒音が響いた。樹の下へ向かう太郎の目に、何匹もの猿たちが、枝から枝へと、必死に逃げていく姿が映った。
 傷ついた猿は、何とか矢を引き抜こうとして、激痛のあまり「ギギッー」と、叫んでいた。太郎が下に現れると、その目を恐怖に引きつらせ、いっそう矢を抜いて逃げようとした。
 だが、矢はびくともせず、猿の腹部は鮮血に染まっているようだ。
 猿はそれが無理と知ると、今度は、しきりと何かを樹の股に置くような仕草をし始めた。
 葉の陰で動くものがあった。
(あっ、また、子連れ…)
 太郎は、猿の仕草の意味することを悟ると、思わず、あっ、と声をあげた。
 母猿は、腹から流れる血潮で真っ赤になった子猿の頭を押さえつけ、なんとか我が子を樹の上に残そうとしているのだった。
 けれども、敵が接近する恐怖の中、子猿はその意味がわからず、ますます必死にしがみつこうとするばかりだ。
 母猿にはわかっていた。
 この高さから落ちれば、我が身はもちろん、子猿も危ない。たとえ無事でも、この人間から我が子が逃げられるものではない。だからこそ、少しでも安全と思われる樹の上に子を残してやりたい。
 母猿は、子猿を残そうと、消えかかっている命の最後の力をふりしぼっていた。
だが、その度に子猿は悲し気な声を張り上げ、また抱きついてしまう。
 母猿は、何度目かの努力が失敗に終わると、もう、子猿を離そうとせず、逆にしっかりと抱きしめた。
 子猿を抱き、太郎をじっと見降ろした。

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