小説

『弓を捨てた狩人太郎』橘成季(『古今著聞集』)

 昔、昔、大昔のこと。
 信濃の国の大岡村に、太郎という若者がいた。
 山での狩りが得意で、筋骨たくましく、どんな大弓でもきりきりと引いて矢を放ち、走れば風のように、一日十里(約四十キロ)の山路を踏み越えた。
 山鳥、野兎、猪、鹿、熊。太郎に狙われて逃げられる獣はいなかった。
 太郎は、幼い頃から、やはり狩人であった父親に連れられ、山歩きをしてきた。だから山の隅々まで、良く知り尽くしていたのだ。
 彼は村の、いやその地方の誰よりも、それらに詳しく、まるで自分の庭を歩くようだった。  
 狩りに出ないときは、太郎は野良仕事に励んいる。米作りをはじめ、畑にはウリや大豆、サツマイモなどを作った。そうした 作物が成長し、次々に実るのを見ては目を細め、その収穫を感謝して暮らしている。
 村の人々と、収穫の良し悪しについて語り合い、お互いに自分の畑にはない作物をゆずりあったりするのも楽しい。
 ひとり暮らしの太郎に、何かとやさしい言葉をかけてくれる村人たちの気持ちもありがたいと思っている。
 しかし、太郎の、その優れた能力は、田畑を耕すことにではなく、山の狩りにあったのである。

 秋の良く晴れた一日、太郎は勇んで山へ向かっていた。このところ山の天気がぐずついて、狩りに出られぬ日が続いていたからだ。
―今日こそは。
 体中に、力がみなぎるのを感じていた。
 山は秋の気配につつまれ、陽射しがきらめいて、清らかな香りが満ちていた。
 太郎は、ざくざくと、落ち葉をふみしめて、山を登った。
 肩に弓をかけ、背中には矢筒と麻袋を背負った。麻袋には大型の動物を獲った時に備えて、解体用の小刀を持ち歩く。腰には握り飯の包と、飲み水の入った竹筒を下げた。
 獣道をたどりつつ進む。
 その道は、動物たちの足跡をかすかに残しながら藪の中を抜け、断崖のふちにまで続いていた。
 太郎はそうして半日、山を登り、谷をめぐって、獲物を求め歩いた。
 湧き水が豊かに流れる谷川。
 動物の好きな実のある森。
 キツネやタヌキなどの巣がある山の斜面。
 ここは、と思う場所を探して歩いた。
 しかし、その日はどうしたわけか、獣たちは姿を見せてくれなかった。
 探しあぐねているうちに、とうとう地元の者が亀岩と呼んでいる、亀の形に似た巨岩までたどり着いた。
 大昔、火山の噴火で転がり出たと思われる亀岩は、その甲羅にあたる部分が二畳ほどの広さがある。亀岩からはふもとの村を見渡すことができ、はるかに遠い山々まで眺望する。
 涼しい風に身をまかせて一休みした。

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