小説

『弓を捨てた狩人太郎』橘成季(『古今著聞集』)

 だが、世話になっている村人たちにも、肉を持ち帰ってやりたい。何より、ずっと狩りに出られずにいた、太郎の若い血がたぎっている。
 太郎は、手の平で顔をパシッ、パシッとたたくと、えいっ、と立ち上がった。

 太郎は、再び山を駆け巡っていた。
 獲物を求めて、風のように身軽に岩場を乗り越え、深い谷を下った。
 鷹のように鋭い眼を光らせ、枝のひと揺(ゆ)れ、草の葉の微かな動きさえも見逃さない。
 やがて―森の北側の、湿った落ち葉がつもる山路に、ゆっくり動くものを見つけた。
 猪だった。
 猪は、その牙で落ち葉を掘り返してはミミズを探しているのだ。体に縞模様のある、ウリ坊と呼ばれる子供も三匹、母親の前後を駆け回っている。
 太郎は、風下から少しずつ近づいた。風上にまわれば、臭覚の鋭いイノシシは、たちまち人間の接近を察知してしまうだろう。
 じりじりと地面を這うようにして、矢の届く距離へ。獲物への接近が、一番難しい。決して焦ってはならないのだ。
―よし、ここなら。
 ようやくイノシシまで十間(じゅっけん)(約十八メートル)に近づいた。猪はミミズ取りに夢中で太郎に気づかない。
大木に身を隠して、ゆっくり矢筒から矢を取り出す。
 木洩れ日の下でよく見ると、雌の猪は、丸々として二十七、八貫(約百キロ)はありそうだ。薄茶色のウリ坊と違い、真っ黒な硬い剛毛に覆われている。
 きりきりと弓に矢をつがえ、息を止め、相手の動きに合わせて狙いを定めた。
 ヒュッ―矢が空気を切り裂く鋭い音を発したその時、ウリ坊が親にじゃれついて、母猪が動いてしまった。
 矢は、わずかに猪の首筋をかすり、落ち葉のつもる山の斜面に突き刺さった。とたんに親子の猪たちは、キィーと鳴き声をあげて、藪の中に逃げ込んでしまった。
 う~ん、と思わず唇をかんだ。
(あれが獲れれば、今夜は、皆に肉をごちそうできたのに)
 猪肉は腸(はらわた)を取り出してから、皮をむかないまま、丸焼きにする。焼き上がったのを、ぶつ切りにして食う。少し癖があるけれど、食べ応えがあり、皮の下の脂肪が口の中で溶けて、格別な味なのだ。
 取り出した腸も貴重だ。この時期のイノシシの腸には、まだ消化されてない山芋が残っていることがある。太い紐のような腸を切り、串刺(くしざ)しにして囲炉裏で焼く。囲炉裏の炭でじっくり、こんがり焼いて食う。たまらなく美味い。
 逃がした獲物は大きかった。ため息が出た。
 秋の太陽は、早くも夕暮れの光を辺りに投げかけ始めていた。
(ダメな時は、どうやってもダメだ)
 太郎は、山路を戻り始めた。

 ザザッ、ザザッ―何かが動いていた。
 谷を挟んだ向こう側の山中の中腹の草むらが揺れている。
 草や藪の動き方から獲物を判断する。
(兎や狐にしては藪の動きが大きい。また猪か? 藪全体がゆれている)
接近する。ようやく獲物の姿が見えた。
(ほう、珍しい)

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