小説

『犬を一匹』樋渡玖(『花咲か爺さん』)

 あり得ないですよね? 頭がおかしい。狂っている!
 だから正直にお金なんて見えない、って言い返してしまったんです。頭がおかしい人間に言ったって仕方ないって分かっていたのですが、私も連日の騒音に頭がきていて。
 そしたら、じゃあ貴方がついてくださいって杵を渡されました。同じようにやったらお金がでるはずだと。血走った目で骨ばった手が私の腕をつかんで言うんです。
 しかたなくついてみました。当たり前ですけど、お金はでなかったです。つくとお餅の音が響くばかりで、傍から見たらなんて間抜けな姿なんだろうと思ったりしました。
 出ないじゃないか、って言って振り返ったら……。
 ……あ、あの顔……二人ともすごい形相で私を見ていたんです。まるで化け物を見るような恐ろしさと不快さを出した顔でした。
 貴方がつくとお金じゃなくて泥があふれてくる。どんどんお餅が黒く染まってくる。
 あの子が貴方に杵を持たせてはいけないと言ってくる。
 そう老夫婦がぼそぼそと呟くんです。そして底なしの真っ黒い目で何か言いたげに私を見る。
 もちろん泥なんか見えなかったです。あの犬の声も私には聞こえません。私に見えるのは変わらず真っ白いお餅だけ。
 狂っているんです。二人とも。あの犬が死んでからおかしくなっているんです。
 その日はそのまま杵を放り出して家に逃げ帰りました。寝ていても老夫婦のあの真っ黒い目が隣から見ているようで怖くて仕方なかった。もう何が起きても関わらないようにしようと決意しました。
 私が文句を言った日から餅をつく音は聞こえなくなりました。一週間ほど静かな日々が続いて、やっと落ち着いたと安心していた時です。あのボヤ騒ぎが起こりました。
 ええ、それが一回目に通報したときです。あの老夫婦が市街地にも関わらず、あの臼をたたき割って、焚火をしていたんです。その日は風も強くて、私の家にも火が流れてきそうな勢いでした。他の家の住人も大騒ぎで警察に通報しました。
幸い他の家に火が回ることもなかったですし、あくまでもボヤで済んだからか、警察の方は注意喚起だけして帰ってしまいましたね。確かにあの老夫婦、警察の前ではしおらしい姿を見せていましたけど、あのとき警察の方がもう少し対応してくれていたらこんなことには……。
 警察はあのとき正しい対応をした、ですか? まぁそういうしかないですよね……もう過ぎたことですね。過去のことを言っても仕方ない。
 あのボヤ騒ぎから、私たち以外の近所の方々もあの老夫婦はおかしいのではないか、という噂が広がっていました。町内の人間のほとんどがあの老夫婦を避けるようになりました。 今まであった町内会の集まりも、お祭りの手伝いも、回覧板までもお願いしなくなりました。
 仕方ありません。この狭い町内であんな騒ぎを起こしておいて謝りもしなかったら、村八分にされるのも納得です。
 私がその噂を冗長した? なんてことを言うんですか。私はただあった事実を伝えただけです。悪いのはあんなことをした老夫婦でしょう。

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