小説

『夏の雪を買いに』若松慶一(『手袋を買いに』)

 母さん狐は町に入りました。お日様は地平線の向こうに沈みかけていましたが、初夏の残り火に包まれた町中にはまだほんわりとした熱気が残っています。お日様の代わりに、ぽつぽつと灯り始めた水銀灯の光が町並みを青白く照らしています。
 仕事帰りだろう作業服を着た男の人や、小さい男の子を連れた母親が、買い物かばんを持って目の前を歩いていきます。母さん狐は母親の連れた男の子を見ると、苦しんでいる坊やを思いました。急がなければ。   
 母さん狐は正体が人間たちにばれていないか心臓が飛び出しそうでしたが、誰一人母さん狐を気にする風でもありません。母さん狐は人間が行き交う商店街を歩いていきます。
 自転車屋さん。メガネ屋さん。魚屋さん。八百屋さん。そして、坊やが手袋を買ったであろう、帽子屋さん。母さん狐は、あるお店を探していました。やがて、やっとお目当てのお店を見つけました。『氷』の旗がたなびくお店。だけど、お店の引き戸はしまっています。
「ごめんくださ~い」
 母さん狐は、店の奥に声をかけました。しかし、いくら呼びかけても返事がありません。どうしましょう、誰もいないんだろうか。母さん狐は、何度も何度も店の奥に向かって叫びました。涙が出てきます。
 すると、店の奥でことこと音がしたあと、 「ごめんよ~今日はもう店じまいしたんだ」と、威勢のいい男の人の声がして、がたがたと木の引き戸が開きました。 

 氷屋さんが店の外を見ると、銀色の洋服を着た上品そうな女の人が立っています。女の人は今にも泣き出しそうな顔をしながら「子供が熱が出たのでどうしても氷を食べさせてあげたいのです」と何度も訴えてきます。ところが・・・女の人の影をよく見ると、お尻の部分でしっぽのような影が揺れています。
(ははぁ、さては前に帽子屋が言っていた、冬に手袋を買いに来た狐の母親かも知れないぞ)
 氷屋さんは一瞬この化け狐を捕まえてやろうかと思いました。だけど、必死で子供のために頭を下げてくる母親の姿を見ていると、だんだんと可哀そうに思えてきました。
「よし。ちょっと待ってな」氷屋さんが店の奥に消えると、ギコギコシャリシャリと音がして、袋いっぱいに荒くくだいた氷と、とろりとした赤や緑の水が入った小瓶を持ってきました。
「帰る頃には、ちょうどいい頃合いに溶けて、かき氷の出来上がりだ。この瓶に入った砂糖水かけて、あんたの可愛い子供に食べさせてやんな。他の人間にばれないうちに、急いで家に帰るんだぜ。狐の奥さん」
「えっ!」
 母さん狐が驚いた顔で、ガラスの器に入った氷を受け取ったと同時に、氷屋さんは引き戸を閉めてしまいました。

「やっぱり、やっぱり、人間はいいものかしら。ほんとうに、人間はいいものかしら」
 母さん狐は何度も何度も呟きながら走り、やがて、可愛い坊やの待つ、洞穴に帰ってきました。
「お母ちゃん、待ってたよ~。とっても体が熱い。お鼻も口の中もちりちりするよ~」
 子狐の体は、母さん狐が洞穴をでた時よりもさらに熱くなっていて、今にも金色の毛皮から煙が出て火が付きそうです。
「坊や、坊やがほしがっていた、雪だよ。甘い甘い、雪だよ」
 母さん狐は、少し溶けかけた氷に、氷屋さんがくれた色のついた砂糖水をかけました。そして、子狐にかき氷の入ったガラスの器を渡しました。

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