お前は幸運だ。私はお前が益虫であることを知っている。妻にも啓蒙しているので安心しろ。しかし調子に乗って、繁殖などしてはいけない。この家は私の家であって、お前の家ではない。私が主人だ。居候であることを自覚して、それ相応の態度で毎日を過ごせ。
小指の先ほどの蜘蛛は、目前のテーブルの上をしばらくそそくさと這っていたが、一旦静止したか思うと、ひと飛びし、カーテンの陰に消えた。さあ、せっせとうちの害虫どもやっつけてくれよ。
誠四郎はふと芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出した。おそらく小学校の教材で習ったのだろう。地獄に落ちた悪人を、天国のお釈迦様が蜘蛛の糸を垂らして救おうとする。悪人は糸をよじ登り、地獄からの脱出を図るが途中で糸が切れて元の地獄に落ちてしまう。
「あなた、お風呂にはいったら」
キッチンから妻の声が聞こえた。由美子が私に指図するなんて珍しいな。もう少しテレビの続きが見たい。でもいいだろう。お前がいるから私はいつもきれいな身なりでいられる。仕事に集中できる。私はこれでも結構仕事ができるほうなんだ。一切の家事を完璧にこなすお前は有難い存在だ。由美子を選んでよかった。お手製弁当の卵焼きもおいしい。お前は虫が苦手だったな。でもこの蜘蛛はお前が嫌いな害虫をやっつけてくれる。お前を守ってくれるだろう
「あなた、聞こえてる?」
しつこいな由美子。お前のことを考えているのに。ああそうだ。私は年齢の割には加齢臭がないそうだ。あの女がそう言っていた。これも毎日、枕カバーを洗濯してくれているおかげかもしれないな。
誠四郎は、テレビを消して居間のソファーを立ち、明日はあの女のところに行こうと思った。
「先輩。今日も手作りのお弁当ですね。羨ましい」後輩の結崎が、誠四郎に声をかけてくる。「俺も早く結婚したいなあ」とコンビニ弁当をかきこみ、誠四郎の弁当を覗きながら「では出張に行ってきます」と立ち去った。
たぶん、お前の恋人は弁当をつくるタイプではないよ。誠四郎は、妻の作った卵焼を咀嚼しながら、結崎の後ろ姿を見て笑った。