小説

『鑑定眼』三坂輝(『魔術』)

「なあ、俺にこれを売ってくれないか?」
 私は断った。どれも私にとって、大事な作品だったからだ。売ることなんて考えてはいない。
 彼らはそんな私にあざ笑うように言った。
「水臭いなあ。儲けられるんだぜ? 君は100万で買ったんだろ? 俺は2000万払うよ。利益が出るんだぞ」
 私は彼が求めてきた絵画に目をやった。
 それはあどけない少年を描いた肖像画だった。モチーフや構図に新鮮さはないものの、描かれた瞳の強さは作家の筆力と観察力のすばらしさを証明するものだった。優しく、厳しく、不安と期待のあふれた瞳は、あるいは私たちが失ってしまった十代のプリミティブな力を思い起こさせる一品だった。
 彼がまた言った。
「分かったよ。もっと出そう。3000万だ。君の大切な品だからな。君だって、その目が認められたことになりやしないかい。いいや、わかった。君のような目の肥えた立派な美術コレクターが手に入れたものだ。1億だ、1億を払うよ。」
 1億!
 私は考えた。
 その作品はこの先も評価は上がるはずだ。間違いなく1億は超えると思っている。しかし、それはまだだいぶ先だろうと考えられた。そう思えば、ここで彼に売ってしまうのはわるくない話だ。私には十分な儲けと、仲間内での評判が残る。
 私は答えた。
「分かった、1億で売ろう」
 私は絵画の中の少年を観た。
 絵の少年は急に顔つきが変わっていた。
 成長をしたように骨格が変化していた。大人びて、そして口元が陰っていた。いや、それはヒゲだった。
 その顔は、あのアートの魔術師だった。

 寒気を感じた。夜風だ。
 私の眼の前には、アートの魔術師である彼がいた。
 私は彼の自宅にいた。ずいぶんな時間が経っていたはずが、ほんの数分のことだったように思える。
 私の頭には、彼の言葉がよみがえった。「欲を出してはいけないのです」。
 彼はさびしそうに笑った。
「欲はいらないのですよ」
 彼の鑑定眼は、私の本質までをも見抜いていた。結局のところ、私はアートを、見栄を張る道具としか見ていなかった。
 机の上に置かれた手帳には7兆という字が躍る。
 桜の花びらが吹いてきた。
 こんな高層階にも桜が舞い込んでくるのかと私は思った。

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