小説

『生者の書』裏木戸夕暮(『死者の書』)

「少子化は歯止めが効かないし、今キープ出来ている優秀な人材を長持ちさせようってのは分かるけどな」
「如何に生き如何に死ぬか」
「すみませーん、イカ刺しひとつ」

 翌日。若い医師は二日酔いの薬を飲みながら出勤した。
「え、何事ですか?」
 特別病室から叫び声が響く。例の星5つの書道家だ。廊下にはスーツ姿の若い男性と、先輩医師の姿。男性は書道家のマネージャーだと名乗った。丁度事情が説明される所だ。
「すみません。先生に、奥様が行方不明とお伝えしたらこんなことに」
「え?事件ですか?」と先輩が訊くと、マネージャーは決まりが悪そうに
「いやあその・・・美々様は大変お若くて美しい方で、先生も随分と入れ込んでいらしたのですが、全財産持ってトンズラされまして・・・」
「トンズラって貴方」
「あ、失礼。先生が延命されたと聞くや否や、莫大な資産を全て現金に替えて、何処かの男と愛の逃避行を」
「いや、言葉変えても大変な事態じゃないですか」
「そうなんです。あ、病院代についてはご心配なく。これまでの御恩もありますから、私が立て替えさせて頂きます」
「まぁこの患者さんの場合国の補助がありますから、それは大丈夫ですよ」
 病室から花瓶か何かが割れる音がした。
「先輩、かなり暴れてますよ?鎮静剤打ちましょうか」と若い医師が口を挟む。
「打ったけどあの状態だ」
 流石に星5つ、お元気でいらっしゃる。マネージャーの証言は続く。
「こう申しては何ですが、以前から怪しいと思っておりまして・・・今回の自動車事故、前回の食中毒、前々回の崖からの滑落、前々々回の腹上死未遂。全て美々様とご結婚されてからのことで」
「最後のはともかく、それはまさか」
「見た目は美しいが金目当ての禿鷹女です。全て剥ぎ取られて先生はもうスッカラカンですよ」
 マネージャーは少々口が悪い。
「うきゃーっ!!」
 高名な芸術家は猿のような奇声を上げて病室で暴れまわっている。マネージャーは案外平気な顔をして腕時計を見た。
「ま、そろそろ落ち着くでしょう。こんな興奮状態は、作品の制作中にはよくあることで」
 数分後中が静かになったのを見計らって、3人は病室に入った。

「こ、これはっ・・・」
 マネージャーが息を呑む。医師2人も室内の様子を見て棒立ちになった。真っ白だった特別病室が闇に包まれ真っ黒に・・・いや違う。墨だ。墨汁。激しい筆致で描かれた美女の肖像と、名前と、罵詈雑言、悪態の極み。語彙と怨念の限りを尽くしてトンズラした妻を罵っている。
「あ、あの女ぁ・・・」
 肩で息をしているが、その背中からは妖気が立ち昇っている。これが先日手術したばかりの80歳の老人だろうか。
「・・・こんな先生は久しぶりに見た・・・」
 マネージャーが呟き、そっと老人に近づいた。今、慰めてやれるのはこの男しか居ない・・・
「先生、最高じゃないですか!!」
「「えっ?」」

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