小説

『版画と林檎ジュース』東野美矢子(『白雪姫』)

 「おお、なんか良いお姉ちゃんじゃないか。肌の感じがすごく良いね」シンイチは背広をチエコに渡しながら言った。
 「私とこの娘、どっちがいい」チエコは思わず聞いてみた。
 「そうだなあ。愛人にするなら」シンイチは作品に目を落としながら言った。「この娘かな」

 その夜、シンイチのいびきが始まったのを見計らって、チエコは布団からゆっくりと抜け出した。冷蔵庫から林檎ジュースの瓶を取り出し、まだテーブルの上に置いてあった版画の隣に置いた。豆電球の元でも、版画の中の女性の輪郭はくっきりと浮かび上がった。この娘はこんなジュース飲まなくても、そのままなのね。私なんか、大して美味しくもないのに、毎日迷信的に飲んで、このありさま。チエコは自嘲的に鼻で笑いながら、瓶をぽんと開けた。
 唇に瓶を当てると、チエコははっとした。思いついた。
 チエコは手の中でひんやりとする瓶を版画の上で持ち上げ、躊躇なく下へと傾けた。さらさらとしたジュースは版画へと直下し、紙は徐々に液体を吸い上げた。それでも絵は滲むことなく、女は様相を保ったままだった。
 「どうして。どうしてなの」チエコは思わず声を挙げて叫んだ。怒りのあまり、チエコはジュースの水分でテーブルにくっついた版画を剥がしとり、感情に任せて破いた。紙は音を立てずに、すうっと切れた。しまいには、版画の亡骸が小さな山になって、テーブルの上に残った。

 「そういえば、あの浴衣の娘はどうした。飾らないのか」
 数日後、布団の中で不意にシンイチが聞いた。チエコは間髪入れずに答えた。
 「あの版画ね。今額に入れてもらってるところ」
 「そうか」シンイチは疑いなく、暗がりの中で煌々とするタブレットに視線を戻した。
 チエコはあの狂ったような夜をぼんやりと思い出した。作品を破壊してしまった後悔よりも、もうこの世にあの女がいないことへの安堵の方が上回っていた。シンイチも一ヵ月もすれば、あの版画の中の女のことを忘れる。帰宅時にうっすらと薫る香水の種類が変わるのも、いつもそれぐらいのペースなのだから。

 数か月後、チエコは元同級生のサヤが担当したという版画の展覧会に出かけた。サヤは修士課程修了後、都内の美術館で長らく学芸員として勤めており、チエコが主婦になってからも律儀に招待券を毎回送ってきてくれていた。 
 照明が落とされた展示室で、チエコは鑑賞をするというよりは散歩するように、何となく並んだ作品に目をやっていた。
 その時である。チエコの背筋に寒気が走り、思わず悲鳴を挙げそうになった。
 展示室の壁に、六樹の《髪をとく女》が、何事もなかったかのようにかけられていた。どうして、どうしてなの。チエコは足早と作品へと突進したが、恐怖と悍ましさで指が震えていた。私が葬ったはずなのに、なんでここにいるの。
 「チエコ、いつもありがとう」
 チエコは振り返った。スーツ姿のサヤがにこにこしながら立っていた。
 「これ、どうしてここにあるの。違うところでも、同じものが」チエコはその場で崩れそうな声でサヤに聞いた。
 サヤは驚いた顔で答えた。「どうしてって。版画だもの。複数枚摺られたから、どこかに同じものがあってもおかしくないよ」
 「そうよね、そうよね」チエコはなんとか佇まいを正しながら言った。「版画だったね」
 「それより」サヤはまた微笑みながら言った。「この作品の前でチエコを見つけた時には、なんか懐かしくなっちゃった」
 「覚えているの」
 「勿論」サヤは言った。「この作品を観るたびに、チエコを思い出すんだから」
 「だいぶ私は変わってしまったけどね」
 「良い意味でね。今日も素敵だよ。緑色の着物、良く似合ってる」
 「でも、この版画は全く変わってない。当時のまま、若くて美しい」
 「そうとも限らないよ」サヤは版画を指さしながら言った。「ここのシミ、わかる?」
 サヤは作品に見られるあらゆる経年変化を指摘した。画面左上の薄っすらとしたシミ、紙に見られるわずかな波うち、原因不明の白い点。言われなければわからないが、確かに年数を重ねているのが見て取れた。
 「照明をこんなに落としているのも作品を守るため。勿論シミとかは決して理想的じゃないけど、私はなんとなく親しみを覚えちゃう。この作品はこの壁にかけられるまで、一体どんな旅をしてきたんだろうって」
 チエコは作品と向き直った。版画の中の女は何も言わずに髪をとかした。胸元ははだけ、気だるい雰囲気が漂ったままだった。光の加減で、うっすらと自分の顔がアクリル面に映った。
 大きく深呼吸をする。嵐がすうっと静まり返り、チエコは自分の中で何かが覚醒するのを、感じた。

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