小説

『待ち合わせ』松野志部彦(『浦島太郎』)

 由佳が旅立った翌年から、浦島祭は開かれなくなった。その頃、タチの悪い感染症が世界規模で流行し、イベントや行事が相次いで中止になる動きがあったのだ。長い時間をかけて混乱は終息したものの、祭が再び開かれることはなかった。「伝統の終わりだ」と地元の新聞は嘆いていたが、それなら海の底へ行っている由佳の立場はどうなるのだろう。終わってなどいない。いい加減なことを言わないでほしいものだ。
 そうして地上が騒いでいる間も、海は穏やかに、ときに荒れ狂いながら、変わらずそこにあり続けた。十年、二十年、三十年……、そして、間もなく四十年が経とうとしている。過ぎ去ってみると、永遠に等しく感じられた時間も、一息に飛び越えてきたような感慨だ。まさしく玉手箱を開けた気分である。
 僕はいまでも浦島海浜を訪れている。結婚はしていない。これまで親しくしてきた人はみな、僕の心が、別の誰かに向いていることを知っていたようだった。それで泣かれたこともある。申し訳ないことだ。しかし、それでも僕は由佳を待っていたかった。自分がここまで純情な奴だったなんて、四十年前には思いもしなかった。
「遅ぇよ……」僕は星の数ほど漏らした溜息を再び吐く。「いつまで待たせんだよ」
 僕が生きているうちに由佳が戻ってくることは、きっとないだろう。百年には、まだ半分にも届いていない。それなのに、僕の体はあちこちガタがきている。残念ながら髪も薄くなってしまった。彼女と再会できても、僕だと見分けるのはもう難しいに違いない。
 靴を脱ぎ、薄緑色に透き通った波へ素足を浸しながら、僕は端末を起動する。呼び出したチャットアプリには、まだあの日のメッセージが残っている。
『どこで待ってればいい?』
 半世紀近くも同じアカウントを使い続けている僕は、もうすっかりゴールドメンバーだといえる。プロフィール写真は四十年前と変わらず、昔の僕の顔のまま。チャットアプリなんて代物はもう廃れていて、身の回りでも、現役で使用しているのは僕ぐらいしかいない。僕と……、海の底にいる人たちくらいだろう。
 思わず、息を止めた。
 いつもと違う画面が、そこにあったからだ。
 すぐには気づけなかった。この四十年間、来る日も来る日も、僕は同じ画面を眺め続けてきた。『どこで待ってればいい?』の吹き出し……、未読のまま、どこにも辿り着かないその虚しさを、どこにも辿り着くはずがないと心の底で諦めながら、僕はずっと目にしてきたのだ。

 既読のマークが、ついていた。

 僕は信じられない思いで、目の前に広がる海を見つめる。海は夏の夕日を映し、静かに震えて、どこまでも続いている。堅く閉じた無情の扉のように思えたそれはいま、僕の胸に起こった感情に共鳴し、音を立てて震えているように見えた。
 熱いものが僕の目を滲ませ、頬にまでその温もりを伝えていった。僕は、笑ったと思う。本当に、久しぶりに、笑ったと思う。飛び越えてきたはずの歳月が一斉に逆巻き、あの夏の日へと僕を運んでいくような気がした。

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