小説

『待ち合わせ』松野志部彦(『浦島太郎』)

 神主が退くと、今度は音楽が始まった。雅楽というのだろうか、神主とは別の装束を着た一団が、笛や太鼓を奏でている。音が発生したことで気が緩んだのか、観衆たちもざわざわとし始めた。足許に視線を落とした由佳は、どんな表情も浮かべていない。僕は彼女を凝視していたが、彼女がこちらに気づくことは最後までなかった。
 やがて音楽が止まないうちに、神主が古い言葉でなにか叫んだ。海が、少し震えた気がした。それが合図だったかのように、由佳と男が沖へ向けて歩きだす。浦島と亀の使い。僕は浴衣の群れをかき分けて前に行ったが、そこから先へはどうしても足を踏み出せなかった。見えない誰かに行く手を阻まれているような威圧感を覚えたのだ。
 二人は振り返ることなく、足も止めなかった。深さが増し、海面はもう由佳の顎のあたりまであった。彼女の黒髪が青い水面に揺れて広がっている。その頭のてっぺんが沈んだかと思うと、隣の男の頭もあっという間に海のなかへ消えていった。最初だけ、透明な泡が水面に昇ったが、それもすぐになくなった。
 そして、二人は海の底へと旅立っていった。
 次に戻ってくるのは、百年以上も先のこと。
 いつの間にか音楽が止んでいた。儀式は終わったようだった。浴衣姿の人々が散り散りになり、屋台やテントの並ぶほうへと歩いていく。いつまでもそこに残っているのは僕だけだった。まるで夢を見ているような気分で、やがて祭が終わり、陽が沈んでしまっても、僕はいつまでも波打ち際に佇んでいた。

 夏休みが明けて、学校が始まると、当然ながら由佳の席は無くなっていた。
 彼女は儀式のことを誰にも打ち明けていなかったらしく、由佳が亀の使いに選ばれたことを担任が告げると、クラスメイトたちは声を上げて驚いた。何人かは気を遣って僕に話しかけてきたけれど、一週間もすれば、みんな由佳のことを忘れてしまった様子だった。あまり彼女のことを話したくなかったので、みんなの薄情さが、僕には少しありがたいほどだった。
 放課後になると、僕は由佳が旅立った波打ち際で時間を潰すようになった。スマートフォンのチャット画面では、『どこで待ってればいい?』という僕の問いかけが、未読のまま虚空をさまよい続けている。いっそスマートフォンを海へ投げ捨てたかったが、そういうわけにもいかなかった。ただ待つということが、こんなに苦しいものだとは思いもしなかった。

 それからも毎日、僕は浦島海浜を訪れ続けた。
 高校卒業後、東京の大学へ進学するつもりだったが、気が乗らなくて地元に残ることにした。理由は誰にも明かさなかった。地元の短大を出て、地元の建設会社に就職し、地元のアパートを借りて暮らし続けた。生まれてからずっと同じ町で暮らしていると、自分がなんだか一本の樹になってしまったみたいで、不思議な心地がするものだ。
 よその土地に行きたい、と思わなかったわけではない。ただ、自分のその欲求を遥かに上回る力を、僕は常に感じ続けていた。それは、あの日、海へ潜っていく由佳を追いかけようとしたときに覚えた威圧感にとても似ていた。一人の人間の意思を軽々と凌駕する、見えない誰かの意思。大渦に飲み込まれる魚の気持ちが、きっとこれなのだろう。僕は旅行すらしなかった。県外に出ることも滅多になかった気がする。

1 2 3 4