小説

『バランス オブ ワールド』中村市子(『羅生門』)

「パンツ、脱いで」
紗栄子が言った。友介は何を言われているのか分からず視線をそらした。ここは鬱蒼とした木々に囲まれた中学校の裏門から続く林道だ。といっても、今は誰も使っていない廃道同然の道で、昼間でも薄暗い。かつてはこの道を通って国道に出るルートで通う生徒もいたが、1年ほど前から下半身裸でコートを羽織った露出狂が頻繁に出没するようになり裏門は閉鎖された。それ以来、この辺りは教師の目が届かなくなり、生徒たちがあんなことやこんなことをするのに最適な場所となった。特に重宝されたのは裏門を入ってすぐ脇にある2畳ほどの守衛小屋だ。窓は新聞で目張りされ、校内カップルがいちゃつく場所として使われている。この小屋を使う時は、使用中かどうか分かるようにドアの前に鞄を置いておくという暗黙のルールがある。友介は小屋の前に置かれた鞄から財布を盗んだところを同じクラスの桂木紗栄子に目撃されてしまった。裏門を乗り越えて林道まで逃げたがあっけなく追いつかれ、冒頭のシーンに至ったのだった。
「早くして」
「なんでなん?」
紗栄子が答えないので、不気味な沈黙が3分ほど続いた。友介は耐えられなくなっておもむろに紗栄子に背を向けると、学生服のズボンと白ブリーフをいっぺんに下ろした。振り向くと紗栄子が手をこちらに伸ばしている。明らかな「要求」のポーズだ。
「財布盗んだのはいけないと思うけど、校内でエロいことするのはいいわけ?」
我ながら言い訳になってないとは思ったが、童貞の友介からしたら、色んな女子を次々と守衛小屋に連れ込む佐々木には、財布を盗まれるくらいの不幸が起こって欲しかった。でないと、不公平すぎるではないか。しかし、紗栄子の表情はぴくりとも動かない。友介は恐る恐るブリーフを差し出すと、紗栄子は瞬時につかみ取り校舎の方へ走り去って行った。友介はなぜだか学校が全然知らない建物に見えて心細くなった。パンツ1枚で世界は変わってしまうんだな、とズボンをずり上げながら考えた。

家に帰ると、紗栄子は洗面所で白ブリーフを手洗いした。自分でもなぜこんな物を奪ったのか分からない。別に盗みを働いた友介に怒りを感じた訳でもないし、制裁を加えるつもりもなかった。でも、どうしてもこうしなければいけない気がしたのだ。
「にしてもだな」
紗栄子はひとり、呟いた。クラスでもさえない吉田友介の、しかも白いブリーフだ。全然欲しくなさすぎてぷぷっと笑ってしまった。

今日、裏門に行ったのは佐々木と由香里のカップルが守衛小屋を使うという噂を聞いたからだ。男女がいちゃつく時に発する声を盗み聞きしようと小屋に近づいたら、友介の窃盗現場に遭遇してしまったのだ。紗栄子は白ブリーフにドライヤーを当てながら、あんな場所で私と出くわすなんて、友介も驚いただろうな、と思った。なぜなら、紗栄子は守衛小屋と最も縁が遠い部類の女子だからだ。紗栄子はクラスで「ママさん」と呼ばれている。ある男子から間違えて「ママ」と呼ばれたことがきっかけだが、学級委員長で真面目で勉強もできるうえに誰に対しても面倒見が良く、たまにお節介が過ぎて陰でうっとおしがられている紗栄子のキャラにぴったりのあだ名だった。そして、このあだ名には「性欲や恋愛の対象にはならない女」というニュアンスが込められていることを紗栄子は知っていたが、世の「ママみたいな女」の宿命として受け入れていた。

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