小説

『バランス オブ ワールド』中村市子(『羅生門』)

乾いた白ブリーフをポケットにねじ込んで洗面所を出ると、リビングから母親が呼ぶ声がした。
「今日のご飯、アジフライかたらこパスタ、どっちがいい?」
「どっちでもいー!」
紗栄子はリビングに顔を出さずに自分の部屋へ向かった。「どっちでもいい」。こんな返事がこの家で許されるようになったのは最近のことだ。紗栄子の両親はどちらも真面目で頑固な高校教師で、小さい頃から子供には自分で考えて決断させる力をつけさせたいと、日常生活にたくさんの選択肢を用意した。しかし、用意する選択肢のことで両親の意見はいつも対立した。例えば5歳のある日、夕食はカレーとハンバーグどちらがいいか聞かれた。カレーは父が、ハンバーグは母が食べたかったのだ。紗栄子は間をとって、ハンバーグカレーが食べたい、と無邪気に答えた。両親はウィットに富んだ娘の回答に満足した。でも紗栄子はこの日、猛烈にラーメンが食べたかったのを覚えている。それでもこの頃はまだ平和だった。両親の対立は時を経るほどに深刻なものになっていった。10歳のある日、夏休みに父と釣りに行くか、母と台湾旅行に行くか選択を迫られた。3人一緒にどっちも行きたい、と答えると、うちにそんな金はないと言われた。台湾なら肉も魚も小籠包も食べられるけど釣りは魚しか食べられないよ、と母に耳打ちされ、仕方なく台湾を選んだ。その夏、父はひとりで2週間の釣り旅行に出かけ、帰ってからも家を空けがちになった。そして12歳の冬、父と母が別々の家に住むことになったが、紗栄子はどっちの家で暮らしたいかと聞かれ、選べないでいるうちに母との二人暮らしが始まった。

紗栄子は自分の“選択ミス”の積み重ねで両親の仲が壊れたのだと後悔した。二人の間にある“見えないバランス”を自分がもっとうまく取っていれば……。紗栄子はよく、右手に父親、左手に母親をぶら下げて、両手でバランスを取りながら断崖絶壁に張られた綱の上をスタスタ渡る自分を想像した。そんな経験から、人間関係で起こるいざこざの原因は全て、なんらかの均衡の崩れが原因だと考えるようになり、どんな状況でも無意識にバランスを心がけるようになっていった。そして気づいたら、みんなのために喜んで自分を犠牲にする「ママさん」が出来上がっていたのだ。

ベットに寝転がりながら、紗栄子はブリーフのアレを出し入れする穴に指を出し入れして構造をじっくり観察した。十分に観察し終えると、立ち上がって右足を直角に上げ、足の指先にブリーフを引っ掛けながら、バランスをとった。

「じゃあ次、図書委員。希望者、挙手!」
学級会の議題は、今年度の委員会決めだった。友介は黒板の前で仕切っている紗栄子をぼんやり眺めていた。
「ママさんがやってよ〜」
男子がおちょくるように言った。
「え〜これも私かよ〜」
紗栄子はおどけながら、はいはい、分かりましたよ、と引き受けた。その笑顔は到底中学3年生が作れる顔ではなく、人生を3周ほどこなしたおばちゃんが見せる叱咤と慈悲を母性で包んだような年季の入った表情だった。10ある委員会のうち、人気がなくて定員割れしている4つの委員会に紗栄子の名前があった。半分以上の生徒はどの委員会にも入っていないにも関わらず、だ。友介は不思議だった。母性を振りまいて生き生きと仕切る紗栄子と昨日のブリーフ強盗が同一人物とはどうしても思えなかった。

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