小説

『バランス オブ ワールド』中村市子(『羅生門』)

放課後、友介はなんとなく体育館を覗きに行った。新体操部の部員たちがダラダラとマットを敷いたりしている中、紗栄子は一人黙々と平均台の上で練習していた。僅かな幅の上で器用にバランスを保ってステップを踏み、顔を天井に向けたままジャンプしたり、くるりと1回転してポーズを決めたりしていた。くねくねと動く体は、長い足で海藻を掻き分けて泳ぐ蛸のように優雅に見えた。友介が予想外に見とれていると、紗栄子と目が合ってしまった。昨日のこと、何か話さなくては……とは言え、ナイーブな話ゆえ、誰かに盗み聞きされては困る。友介は平均台の脇に得点板を引っ張って来て、チョークで小さく「白ブリーフ」と書いた。紗栄子が見たのを確認し、さっと文字を消すと「昨日たまたま」と書いて、またすぐ消した。紗栄子が不思議そうに友介を見ている。友介は続けて「いつもはトランクス」消す、「昨日は全部」消す、「せんたく中」消す。紗栄子が平均台をひょいと降ると、友介からチョークを取り上げ「了解」と書いて消した。友介は少し考え「欲しかったの?」と書いて消す。紗栄子は首をかしげてから、平均台にひょいと飛び乗りくるりと1回転した。バランス感覚いいな。友介はそんなことを思いながら「返して」と書いたが、紗栄子はもうこっちを見ていなかった。

「新体操部、今日アレの日だってよ」
新体操部がレオタードを着て練習するという情報は、男子の間でどこからともなく回ってくる。レオタード姿の女子を冷やかしに行くのだ。あの事件から1週間、自分でも驚くほど頭の中が紗栄子のことでいっぱいになっていた友介は、紗栄子のレオタード姿を見に行くことにした。体育館に入ると、2年の可愛い女子が平均台に上がって演技をしていた。ヘラヘラとポーズを決め、ついでクルリと回ろうとした時、足を滑らせて股全開で転げ落ちた。男子たちは爆笑しながらもそれとなく股に目を凝らすと、女子生徒は泣きそうな顔で何かブツブツ言いながら体育館を出て行ってしまった。するとすかさず、遠くでストレッチしていた紗栄子が小走りでやって来て、平均台に上がった。男子たちが「ママさ〜ん」と冷やかしたが、みんなそれほど紗栄子のレオタードに興味はなさそうだった。紗栄子は真剣な顔で1歩1歩、丁寧に平均台を歩き、深呼吸をした。と、次の瞬間、クルリと回ろうとして大きく足を踏み外し、先ほどの女子と同じように大股を開いて転がった。男子たちは笑いと冷やかしの声を上げたが、友介は笑えなかった。転び方がなんだかわざとらしく思えたのだ。それは、今までクネクネ泳いでいた蛸が、一瞬で干し蛸になって固まったような不自然さだった。ふと転がったままの紗栄子の顔を見ると、天井を見つめて穏やかに微笑んでいた。友介ははっとした。やはり今、紗栄子はわざと転んだのではないのか?先に転んだ女子の無様な失敗に合わせるように。いかにも「ママさん」が考えそうなことだ、と思った。
「いや、待てよ。だとすると……」
友介は考え込んだ。

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