小説

『娘の家』吉岡幸一(『リア王』)

「次女の恵美の家に行こうと思うんだ。あっちならもっと父親のことを大切にしてくれそうだからな」
「恵美の家はここよりも狭いですし、サトシ君も今年は中学受験だって言っていたから、お父さんが行くと嫌がられるわよ」
「なら、三女の妙子のところにお世話になるさ。あの子はお前と違って優しいからな。子供もいないし、父親のことを大事にしてくれるはずだ」
「私だってお父さんのこと大事にしているでしょう。妙子は外国で暮らしているのよ。結婚もしないで仕事ばかりしているんだから、お父さんの面倒なんかみれるわけがないでしょう」
「どうせ金を持っていない父親がいても迷惑なだけなんだろうな。金さえあれば立派な施設にでも入ってお前らの世話になることなんてないんだがな。ああ、惨めだね」
「施設になんか行かなくたって、この家で元気に暮らしていけばいいでしょう。だれも出ていけだなんて言っていないでしょう」
 優子はぽろぽろと涙を床に落しました。泣いていることにも気づかないようで、手で溢れでる涙を拭うこともありませんでした。
 剛志はどう言葉をかければいいのかわからないようで、立ち上がるとしばらく泣く娘を見下ろしていました。剛志にしても泣きそうな顔をしていましたが、剛志は泣くことはありませんでした。苦しそうに眉をしかめて、きつく唇を閉じて耐えていました。
 優子の涙から逃れるように剛志は家を出ました。玄関のドアを閉めても声は追ってきません。鳴き声も漏れてくることはありませんでした。
 焼け付くような日射しが剛志の髪の毛を焦がします。帽子を被ってくればよかった、と思いながらも今さら取りに戻るわけにはいきません。門を出た剛志は首筋から吹き出てくる汗を手で拭って、足を引きずりながら歩きだしました。
 妻が亡くなったのは半年前でした。肺の病気で亡くなったのですが、剛志にはそれが自分のせいだと思えてなりませんでした。苦労をかけたから病気になったと思っていました。妻よりも先に死にたかった。最後に看取ることができた幸せよりも、生きながらえてしまった悲しみのほうがはるかに深かったのです。
 こんなはずではなかった。老後は年金と蓄えた貯金でのんびりと夫婦ふたりで過ごしていくつもりでいました。三人の娘たちに面倒をかけるつもりではありませんでした。娘には親のことなど気にすることもなく、自分たちの生活だけを考えて過ごしてほしいと願っていました。まさか娘の家にやっかいになるなど夢にも思っていませんでした。
 歩き続けた先には空き地がありました。木の杭が打たれロープがはられて空き地の中に入ることができないようになっていました。

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