呆然としている柳川と恭子の表情に気がついた。
「えっと、ブレンドコーヒーをいっぱいで、間違いないですよね……?」
みるみる顔が赤くなり、口元が緊張で震えだした。その顔は以前のような、挙動不審の猫のようだった。
柳川は可笑しくなった。
何か言いたげな恭子を一瞥して制し、首を横に振った。
「いや、間違ってないですよ」
文乃は胸をなで下ろし、改めて漫画本を差し出した。
それは『トシとシュン』の単行本だった。
「『トシとシュン』?」
柳川と恭子が異口同音に顔を上げる。
「私、『トシとシュン』が大好きなんです。もちろん、『雲野維斗』もいいんですけど……何だか、『トシとシュン』を読んでると、心がすっと軽くなるんです!」
柳川は微笑んで、漫画本にサインをした。幸福が戻って来たような気がした。
「おかしな人ですね、普通、コーヒー一杯を、こんな風に勘違いしますか?」
ぴょんぴょん飛び跳ねながら駆けて行く文乃の後ろ姿を見ながら恭子が半笑いで言った。柳川は笑顔でコーヒーをすすった。
「完璧なものなんて、存在しないんですよ」
「何のこっちゃ」
柳川は鼻で笑い、すぐに真剣な目になった。
「恒藤さん、お願いがあるんですけど」
「何ですか?」
「『トシとシュン』、連載再開していいですか?」
「え? 『トシとシュン』?」
「もちろん、『雲野維斗』もしっかり描きますから」
「いや、シャバクの連載については私がとやかく言えるものではないので、柳川さんがいいんなら全然構わないですけど、大丈夫なんですか?」
柳川は力強く頷いた。
無謀であることはわかっていた。しかし、大丈夫でなければ駄目だと思った。
描こう。描きたい漫画を根限り描き続けよう。仮に駄作しか描けなくても、躊躇してはいけない。駄作三昧の日々の中にしか、自分の幸福は生まれないのだから……。
柳川は文乃へ目をやった。
文乃は漫画本を大切そうに胸に抱え、無邪気な笑みを満面に浮かべていた。