小説

『駄作三昧』南口昌平(『戯作三昧』『あばばばば』『芋粥』芥川龍之介)

 そう言いかけて柳川の顔を覗き込んだ。テーブルの上に広げられていた『雲野維斗』アニメ化に関する書類と、柳川の顔とを交互に見て、「あ」と驚いたように目を広げた。
「もしかして、漫画家の柳川虎之介さんですか?」
「あ、はい」
「わわ! すごい! 私、ファンなんです! あ、あ、今日、偶然先生の、あの、漫画持って来てるんで、サイン貰ってもいいですか?」
 今にも飛び跳ねそうな文乃に気圧されてしまい、柳川はただ黙って頷くしかできなかった。
 文乃はすぐに駆け出し奥へ入ったかと思うと、すぐに漫画本を一冊持って店へ出てきた。
「何やってんだい!」
 途端に怒鳴り声が響いた。
「仕事中だろ!」
 初老の女性店員が文乃の漫画本を奪い取り、それで彼女の頭を叩いた。
「さっさとお客様の商品運びな!」
 初老の女性は漫画本をカウンターの上に置くと、不愉快そうに店の奥へ入っていった。
 文乃は顔を真っ赤にさせていたが、すぐに柳川へ目をやると、舌を出して苦笑いした。それから、店の奥へ視線を向けてわざとらしく顔をしかめた。
 もうそこに、以前の文乃はいなかった。柳川は途方もない寂しさを感じた。そこには、環境に馴染んでしまった生意気な成人女性がいるだけだった。この一年の間に、文乃の生活に大きな変化があったであろうことは、男性店員と馴れ馴れしく話をしている彼女を見れば明らかだった。
 作品がアニメ化されるほどの人気漫画になり、文乃がその作品の読者であることさえ明らかになった。柳川の願いは全て叶ったかのように思われた。
 しかし、柳川は全然幸福ではなかった。むしろ、以前の自分のほうが遙かに幸福だったような気さえした。
「どうしたんですか?」
 ため息をつく柳川に、恭子が訝しそうに訊ねる。柳川は俯いた。
「恒藤さん、幸福ってのは、掴んでしまうと価値が失われるものなのかもしれないですね」
「何ですか急に」
「完成した途端に、全て過去になってしまうんですよ」
「わけわかんないですよ」
 恭子が笑っていると、文乃がトレーに商品を載せてやって来た。
「お待たせしました。こちら、ブレンドと、コーヒーいっぱいです」
そう言ってテーブルに置かれたのは、ホットコーヒーの入ったポットだった。
「え?」
 柳川が顔を上げると、文乃はエプロンのポケットから漫画本とペンを取り出し、それを柳川に差し出しながら、
「これにサイン……え?」

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