柳川の生活は、完全に『雲野維斗』を中心に回りはじめた。何しろ週刊連載であることに加え、思いつきのアイデアでまとめられるような作品ではないのだ。冤罪事件が起きた経緯と真犯人を捕まえるための道筋を論理的に考え出す必要がある。それは生半可な仕事ではない。柳川は『雲野維斗』のアイデア出しに忙殺されていた。
「ジャンクでの連載を勝ち取るため」だけに生み出した『雲野維斗』は、本来柳川が描きたかったジャンルの漫画ではなかった。『トシとシュン』のような、馬鹿馬鹿しいギャグ漫画を描きたかった。しかし締め切りは回転木馬のように毎週決まってやってくる。ナンセンスなギャグを考える暇などない。ライフワークのように描いていた月刊シャバクの『トシとシュン』は無期限の連載休止となった。
来る日も来る日も人が殺されたり冤罪で捕まったりすることを考えながら、特に描きたくもない漫画を描いているうちに、柳川は自分が何のために生きているのか、わからなくなっていった。
『雲野維斗』の連載が始まって一年が経った。
柳川は、担当編集者の恒藤恭子と、喫茶「Rasho-mon」にいた。『雲野維斗』のアニメ化が決まり、そのことについて説明を受けているのだった。
恭子は席に着くなりいろいろと話しだした。柳川は虚ろな目をしている。話はほとんど聞いておらず、ただ、一年ぶりに見る文乃の姿をボンヤリと眺めていた。
文乃は客にお尻を向ける形でカウンターの中の男性アルバイト店員とお喋りをしていた。エプロンの結び目は整っており、茶色く染められた髪の毛はポニーテールで綺麗にまとめられている。
「あ、何か注文しますか?」
店員の尻ばかりに目をやる柳川に気がつき、恭子が手を挙げた。
「すみません、注文お願いします」
文乃が振り返り、「はぁい」と大きな返事をして近寄ってきた。
「えっと、私はブレンドのホット」
「はい、ブレンドのホットですね」
文乃は微笑を浮かべながら注文を繰り返し、柳川の顔を見た。
「お客様は?」
その顔には、しっかりとした化粧が施されていた。目が一回り大きく見え、その表情には自信が溢れているようだった。
「あ、えっと、じゃあ、ホットコーヒーを一杯お願いします」
「ブレンドでよろしいですか?」
「はい……」
「かしこまりました」
文乃はこなれたように伝票にペンを走らせ、
「少々お待ちくださ……」