この女性は塚本文乃という十九歳のアルバイト店員である。この店で働き始めて半年になるが、いつまでも新人のようなへまをして叱られてばかりいる。大きな声ではっきりものを言うのは謝罪をするときだけで、基本的にはぼそぼそと恥ずかしそうに口ごもり、「いらっしゃいませ」さえろくに言えない。その上しょっちゅう注文を間違える。一度、「コーヒーを一杯」という注文を「コーヒーをいっぱい」と勘違いし、ポットで十杯分のコーヒーを提供したことがあった。しかし不思議と、彼女の不手際が客を不愉快にさせることはなかった。
むしろ、たどたどしい文乃の姿を見たいがために来店する客もいるくらいである。実際、そのとき「コーヒーをいっぱい」飲まされた客は、ついに怒ることなく、嬉しそうに十杯分の代金を支払い帰っていき、今では常連となってこの店に通い詰めているのだった。
柳川がこの店に通うのも、文乃のためである。
店の隅で俯きがちに肩を落としている文乃を見ながら、柳川は夢見心地になっていた。
「文乃ちゃんと話をしたいもんだ」
目尻を下げ、柳川はひとりごちた。それから、「自分の描いた漫画を、文乃ちゃんが読んでくれていたら嬉しいのにな。彼女が落ち込んでいるときに、その心を優しく慰めるのが、自分の漫画だったらどれだけ幸せだろうな」と、夢のようなことを考え、すぐにかぶりを振った。
だとしたら、月刊少年シャバクのような人気も知名度もない漫画雑誌に連載している場合ではなかった。日本一の出版部数を誇る大人気漫画雑誌、週刊少年ジャンクで漫画を連載しなければならない。柳川は目つきを鋭くした。「文乃ちゃんはジャンクの読者なのだ!」。
柳川は手を挙げて文乃を呼び、ホットコーヒーのおかわりを注文した。文乃は注文内容を復唱することなく伝票へ何やら書き込むと、カウンターまで駆けて行き、すぐに商品を運んできた。それはアイスコーヒーだった。文乃はミスに気がつき、ろくに化粧のされていない眠そうな目尻に涙を浮かべ、挙動不審の猫のようにあわあわと戸惑った。しかし柳川は口角を上げて首を横に振り、嬉しそうにアイスコーヒーを飲み干した。
その日以来、柳川は少年ジャンクで連載するためのアイデア出しに没頭した。ああでもないこうでもないと頭を捻り、『雲野維斗』というミステリー漫画を生み出した。私立探偵の雲野維斗が冤罪事件を再捜査し真犯人を見つけるという内容で、ジャンク編集部へ持ち込んだところ編集長のお眼鏡にかなった。特別読み切りで掲載された途端に大反響を呼び、その後すぐに連載が決まったのだった。
念願のジャンクでの連載である。柳川はもちろん歓喜した。これで自分も人気漫画家の仲間入りができる。
しかし、すぐに柳川の心は疲弊していった。