小説

『何千回もある』菊武加庫(『織女と牽牛』)

 いきなり予測もしない高波が立ち上がり、曲がり切れずに溢れ出したことが幾度もある。そのたびに犠牲者が出た。轟轟と音を立てる激流は底知れず冥く、なのにいつも煮えたぎっている。
 よく見ると、河にはぽっかり穴の開いたところがあり、流れが緩やかな時間には、そこから下界をうかがうことができる。退屈しのぎに眺めることで、取り残されないように努めてきた。二千年前のままでいては想像を絶する孤独となるだろう。さすがにそれを受け入れる勇気は持てずに、今風にいうならば情報や語彙のアップデートを行ってきたわけである。

 七夕は日本という国で短冊に願い事を書いて笹に飾るという、星まつりの形を未だ残している。だが、短冊をクローズアップすると、再びため息が出そうになった。
「スマホを買ってもらえますように」、「ゲーム機がほしいです」、「ハワイに行けますように」――。
 ついこの間までは、「みんなが健康に暮らせますように」だの「世界が平和でありますように」などといった普遍的な願い事が中心で、その中に「お裁縫が上手になりますように」、「字がうまくなりますように」など、自己実現の類が混じっていた。
 スマホやゲーム機などは、あのトナカイのそりに乗った老人の管轄ではないのか。彼とて高価すぎる要求には困惑しているにちがいないが。
 あの白髭の老人はその昔、ただの人間であったらしい。どういうわけか近年あのような出で立ちで再登場し、そのときにはすでに老人だった。以来あの風体を維持している。今後は永遠に年を取らない老人なのだろう。
 のぞいていると面白くてやめられない。
 誰しもなんと愚かで、取るに足らないことで悩み争っていることか。そして、ずっと見ていると分かってきた。争いの元も悩みの原因も、すべて共通しているということが。
 ほとんどの人間が「老」と「死」を恐れて、少しでもそれを遅らせようとして、もしくは惨めな終わり方をしないために悪あがきをし、争い、自分だけにはお得な「老」と「死」が訪れるよう目論んでいるのだ。

 ふと見ると女たちの間では「アンチエイジング」という言葉が呪文のように飛び交い、彼女たちは絶え間なく煽られ、いつも何かに飛びついている。中には馬の胎盤を注射する者や、後頭部を切開して皺を伸ばすなど恐れを知らぬ行為に走る者もいる。
 弛み、皺が寄る多くの女たちは、なぜ老化こそがアップデートだと気づかないのだろう。肉体の変化がもたらす刺激の素晴らしさに気づかないのは贅沢だ。

 場所を変えると、止まった自転車を汗だくでこぎ続ける集団や、鉄の塊を寝たまま持ち上げて真っ赤になっている男女がいる。いつまでも逞しく、若く、美しくいるための苦行なのだと見ているうちにわかった。

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