小説

『何千回もある』菊武加庫(『織女と牽牛』)

 この人たちは、いつまでも若く美しいことが、どれほど退屈で残酷なことかを知らない。抗い、闘う対象があること、そして何よりその闘いには必ず終わりがあること。それは素晴らしく幸福なことなのに。

 ある家では夫婦と見られる中年の男女が罵り合っている。どうやら争いは昨日今日のことではないらしい。
「あなたはいつもそうなのよ。何度話してもわかり合えない。5年前も10年前のあの時も、同じだった」
「話をしたくても、いつもろくに返事もしないのは誰だよ」
「そうやってあなたはいつも逃げていたものね」
「僕だけが悪いのか。逃げていたのは君も同じだろう」
「もういい。今度こそ離婚しましょう。今が再スタートの限界よ。たった一度の人生をもうこれ以上無駄にしたくないの」
 女はバッグから書類を取り出すと、テーブルの向かいにすべらせた。

 あるいは、別の場所では金色に髪を染めた少年たちが踊り、歌っている。
「一度きりの人生を悔いなく自由に生きようぜ~!」
 舞台の下では少女たちがひしめき合って、手拭いを振りながら奇声を上げて呼応する。お互い充実していて何よりだ。
 そういえばよく見ると、本屋には「一度しかない人生……」というタイトルの本が何種類も平積みされている。
 皆気づいていない。「一度しかない人生」は私も同じだが、彼ら、彼女らは「いつか死ぬ」というルールを楽しんでいるのだ。
 本当に終わりがなかったら、どうやったら死ねるのか、きっと考えるだろう。そのときも、人より苦しまず、得をする死に方を求めて争うにちがいない。

 しばらく見まわすと、老人たちが住む家がある。息子の顔も自分の年もわからなくなった人が多数生活している。自覚がないから同じ入居者を見て、「ああはなりたくはないねえ。私はまだまだ大丈夫」と歯のない口で笑う。言われた側も悪口などとうに聞こえていないらしい。自分の話したいことだけを話す。
 衰えること、変わること、忘れること、これらは全て私が永遠に失ったものだ。この何も持っていないように見える老人たちは、実は何もかも手に入れたまま死に向かう。不公平だ。わたしには何もない。
 また、とある病院では恋人の臨終を告げられた青年が縋りついて慟哭している。「今日は七夕だよ。一年に一度でいいから会いに来てくれ」
 そう言って再び泣き崩れている。慟哭の中、彼は最高のカタルシスを感じているにちがいない。

「到着なさいました」
 侍女の澄んだ冷たい声がした。
 一年に一度、カササギの橋を渡って牽牛が来る。二千年の中では、そしてこれから永久に続く歳月の中では、どうということもない一日だ。
 橋から降りた「夫」はやはり何の変化もない。強いて言えば会うごとに疲労が蓄積して見える。ただの貧しい青年であった彼は平凡な顔立ちだったが、今は油断すると目が洞穴のようになる。きっと私もそうなのだろう。

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