小説

『鬼のグレーテル』みきゃっこ(『ヘンゼルとグレーテル』)

 恵方巻きにかじりつこうとしていた、まさにそのとき電話が鳴った。
 黙って食べようねと娘に散々言い聞かせていたのに、そのスタートを邪魔されて少しむっとしながら着信を確認する。兄だった。
 めったに電話などかけてこない兄が珍しい。あまりよくない胸騒ぎを覚える。それは当たっていて母が亡くなった知らせだった。
 急な出来事だった。昨年亡くなった父をずっと看病していて、特に悪いところもなく元気だと思っていた母は父を追いかけるようにころっと逝ってしまった。あまりに唐突なことで実感は全然湧かなかった。
 独身の兄は小さな娘がいるわたしを気遣って、葬儀の煩雑なことをすべてやってくれた。わたしはただ喪服を着て弔問に訪れてくれた人たちに頭を下げるだけだった。
 遺影の母の写真を見てもまるで自分の母のようには思えなかったし、どうして自分がここにいるのかわからなくなる瞬間が何度もあった。娘が騒いだり他人に迷惑をかけないように見ていることに集中してなるべくかなしみと向き合わないようにしていた。
 通夜も告別式も終わり、母はあっという間に小さな骨になってしまった。娘と一緒に骨を拾うときでさえ、本当にこれが自分の「おかあさん」なのかよくわからなかった。
 そんなわたしを憔悴していると思った夫は、火葬が終わった日、娘を連れて先に家に帰って行った。お義母さんとお兄さんとゆっくり思い出話でもしたらといって眠る娘を胸に抱えて一人で車を出した。
 思い出話も何も兄とも久し振りで何を話したらいいのかわからなかった。かつては住んでいたはずの実家も、もうそこを出てから何年も経っていて懐かしさはあるものの今では他人の家のようでどうしたら居心地がよくなるのかわからなかった。お風呂に入り、居間で兄とビールを飲んでいるときようやく何となく昔を思い出したような気持ちになった。
母のことを話そうにも何を話したらいいのかわからなくてわたしはどうでもいいことを兄に聞いた。お兄ちゃんは恵方巻きとか食べるの。え、恵方巻き、いや食べたことないよ、ビールを飲みながら兄は答える。
 大して仲がいいわけではないが、かといって悪くもない。未だ独身の兄は自由に暮らしていてあまり生活感がない。この人と幼少の頃から十代のうちを一緒に過ごしていたのかと思うと何だか少し不思議な感じさえする。
 なんで、急に恵方巻き。ああ、母さんが死んだのが節分だからか。ビールを一口飲んで頷く。おまえは毎年食べてるの、恵方巻き。まあそうか、家族がいたらそういう行事もやるか。
 特に会話は盛り上がることも、何か涙を誘うような思い出が出てくることもなさそうな感じだった。兄もわたしも淡白な性質だ。父が亡くなったときも散々泣いていたのは母だけで、おまえたちは全然泣かないんだねと母に言われた。
 母が亡くなった今もわたしたちは泣いていなかった。それを薄情だと言われれば仕方ない。でも出ないものは仕方ない。嘘泣きしたって死んだ人は帰ってこないのだ。

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