小説

『鬼のグレーテル』みきゃっこ(『ヘンゼルとグレーテル』)

 明日は午前中の早い時間には帰りたいし、そろそろ寝ようかなとビールを煽って飲み切ったとき、兄が、そういえばさと何かを不意に思い出したように話しはじめた。
 子どものときの節分、覚えてる?
 急に言われて、答えを返せない。いつの、と聞くと、えーとあれ、おまえが幼稚園のときだったかなあ。俺が確かもう小学生だったから。全然覚えてない。そもそも家で節分とかやってたっけ。やってたんだよ、ちょうど、そのおまえが小学校上がる前くらいまで。
 父はわたしたちが子どもの頃、酒癖が悪くて家にいることはほとんどなかった。外で飲んで帰ってきては夜中に怒鳴っているその声しか覚えていない。だから子どもの頃に、家族で何かの行事をしたこともあまり記憶がなかった。
 昨日、火葬場でさ、おまえが娘を追いかけて走り回ってるの見て思い出したんだよ。はぁ、それで。節分に豆撒きしようって母さんが言い出してさ、たぶん、幼稚園でも昼にやったんじゃないの、やりたいっておまえが言い出して。親父はさ、もちろん飲みに行ってていなかったから母さんが自分で作った鬼の面付けてさ、豆撒きしたんだよ、三人で。
そんなことあったかな、と必死に思い出そうとするが全然記憶は蘇ってこない。
 それがさ、といってビールをちびちび飲みながら兄は本当におかしそうに笑う。鬼の面かぶってるのに、おまえの後をずっと追いかけてるの、母さん。おにはーそと、ふくはーうち、っていいながらおまえ、力士が塩巻くみたいに盛大に豆撒いて家中歩くから、母さんは後ろからついて歩いてすぐに撒いた豆を拾って歩いてるの。あれで結構きれい好きだったもんな。それ思い出しておかしくてさ。鬼なのに、豆拾って歩いてるんだよ。笑っていたけれど兄は泣きそうだった。
 わたしはその思い出がまだ全然思い出せなくて困惑していた。そんなことあったのだろうか。幼稚園頃のことだったら、やはり全然覚えていないかもしれない。少し悔しい気持ちになる。
 家中あちこち撒いて歩いて、おまえ、風呂場に入っていって、何でかわからないけど風呂の蓋まで外してそこに身を乗り出して、おにはーそとってやったんだよ。
 それを聞いて急に思い出した。
 母さん、たぶんおまえが風呂に落ちると思ったんだろうね、危ないっていって、なのにおまえのこと逆に風呂に突き飛ばしちゃって一緒にびしょ濡れになってさ。兄はおかしくてたまらないというふうに笑っている。
 思い出した、でもそれが節分のときという記憶はなかった。わたしのなかでは母にお風呂に突き飛ばされてびしょびしょになったという記憶しか残っていなかった。確かその頃、よくヘンゼルとグレーテルの絵本を読んでもらっていて、だからお風呂に落ちたそのときも自分が魔女で竃に突き落とされたような気になって大泣きしたのだ。
 そんな子どもの頃のことを今、急に思い出すなんて思っていなかった。思わずわたしも笑ってしまう。
 あれ、節分のときだったの、もう全然覚えてなかった、ただお母さんにお風呂に突き飛ばされたんだと思ってたよ。なんで母さんがそんなことするんだよ、兄は泣きながら笑っている。気付かぬうちにわたしの目からも涙が零れている。でもそれが笑い過ぎて出た涙なのか、もう母に会えなくて出ている涙なのかはわからない。

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