小説

『何千回もある』菊武加庫(『織女と牽牛』)

 またこの日が来た。
心待ちにしているわけではない。今年も侍女に教えられて「ああそうなのか」と、思っただけである。
 私にとっては十年も、百年も同じなのだ。ましてや一年など大河の小石にもならない。二千年ほど以上もこうしているのだから。
 それが二千年に近い「二千年ほど以上」なのか、三千年に近い「二千年ほど以上」なのか、それすらわからないし、今となってはもうどうだっていい。
 部屋に戻り鏡をのぞく。
 そこには二千年前と何一つ変わらない自分がいる。櫛を手に取ると、しみひとつない手の甲が目に入り背筋が寒くなる。いつ見ても、塵ほどの変化さえ見当たらない。そんな自分の姿を確認すると、恐怖も驚きも通り越して深いため息がこぼれる。ため息は重さを増して、終わりのない真っ暗な洞穴に吸い込まれ、同化していくかのようだ。私は誰一人味わったことのない、果てしない暗がりの中につくばっている。
 容貌はこれほど変わらないというのに、二千年以上前の物語は転々と変わり続けた。変わり過ぎて記憶なのか物語なのかあやふやな部分がある。形を変え様々な悲恋もの、教訓もの、家族愛ものとアレンジされて広がった。時に詩となり、舞台となり、映画にもなった。当時を知る人はすでに無く、物語は時代に都合の良い伝言ゲームのように語り継がれてきた。
 そもそもあれは恋愛だったのだろうか。いや、どう思い返してもそうではない。牽牛が誰かにそそのかされて私の衣を隠してしまい、天に帰れなくなっただけなのだ。仕方なくそのまま同居を始め、子どもまで生まれた。自動的に地上では夫婦と呼ばれた。
 だけど私は普通の人間の女のように母性があったわけでもないし、「夫」に愛を感じていたわけでもない。どうしても帰ることを諦めきれず、ある日牽牛を問い詰めてやっと衣を取り戻すことに成功した。
 すると、あろうことか、彼は後を追ってきて、おばあさまを怒らせたのだ。おばあさまは簪を引き抜いて天を切り裂き、追ってきた牽牛は対岸に取り残された。物語は一部でそのように語り継がれた。
 あれ以来私は年を取らない。一年に一度牽牛は会いに来るが、彼も二千年前のままだ。だが不思議だ。若者そのもの皮膚の上に、年々何かが重なり続けた違和感がある。当然と言えば当然なのかもしれない。彼は元々普通の人間でしかない。細胞の一部や、遺伝子の何かが歳月の重みを感じ続けていてもおかしくはないはずだ。
 牽牛も疲弊し倦んでいる。それだけは確かだ。
 老いることも死ぬこともなく永遠に再会し続ける――その残酷さだけは夫婦で確かに共有してきた。

 滔々と流れる河はおそらく地上から見ると煌めく星の集合体なのだろう。しかし、そばに佇むと恐ろしい激流だ。
 河は弓なりに音を立てて流れており、慣れていない者が近寄ると、時折勢いよくすれすれの水位になって、呑まれそうになる。

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