小説

『萌し』夏迫杏(『春は馬車に乗って』)

 ジャイロアップに色とりどりのガーベラをめいっぱい積みこんで、春高は一度玄関に戻り、式台に置いていた青いヘルメットをかぶる。内部のクッションにあたまを包囲される窮屈な感覚を、そのむかしあなたと共有したことがあったけれど、いまはもう意味を成さない。
 床を軋む音がして、台所から母親が出てくる。
「きょうも遅いん?」
「せやなあ、三軒回るし遅くなるとおもう」
「わかった。夕飯、ぶり大根やしな」
「はい」
 いってきます、と春高は玄関を出て、ジャイロアップにまたがってヘルメットのシールドをおろした。母親というのは、どうして出がけになると訊いてもいないのに夕飯の献立を述べるのだろう。きのうは青椒肉絲と言っていて、おとといはオムライスと言っていた。そしてきのうの夕飯は青椒肉絲で、おとといの夕飯はオムライスだった。約束をしているみたいだと春高はふと考えついて、ほんとうに約束なのだろうなとおもいいたる。約束には有効期限がある。どちらかの命が尽きるまで。だから春高はどんなに疲れていても家に帰るし、母親がつくる夕飯をたべた。
 荷台でがたがたと揺れているであろうガーベラを道路に落っことしてしまいやしないかと気にしつつ、春高は信号と法定速度を守ってジャイロアップを運転する。きょうは隣町の原田さんの家へ。それから三軒隣の松本さん、はす向かいの近藤さんを訪れることになっている。冬のはじめには一日に十軒ほど花を配ってまわっていたのが、いまでは片道二時間もかかる地域にまで配達しているせいでせいぜい三軒まわることができればいいほうになってきている。両親が担っていた家業を継ぐと言いだしたのは春高自身だったけれど、まさかここまで骨の折れる仕事になるとは想像していなかった。しかし、春高はひとつも文句を言わずに配達を淡々とこなした。そうするほかなかった。
 春高は記憶を頼りに左折する。原田さんから配達を依頼されたのは、きのう配達にいった三田さんの家から帰ろうとしていたときだ。おにいちゃん、と呼びかけられて振りむくとそこには痩せぎすのちいさなおんなのこが立っていて、うちにもお花ちょうだい、と言うのだった。わかった、あした行く、と春高はふたつ返事で承諾した。そこから連鎖するように、おんなのこと春高のやりとりを目撃していた松本さんと近藤さんにも配達を依頼された。電話やメールやインターネットがある利便に富んだ時代だけれど、春高の仕事というのはそういうふうにして決まっていく。
 はるたかや?
 ジャイロアップで切っていく緩い風のなかに問いかけるような声が聞こえて、春高は心臓を鷲掴みにされたような焦燥を感じる。嫌な予感。運転をやめてはならない。
「春高屋!」
 目的地は、原田さんの家はまだ先だと言い聞かせる。きょうの仕事はまだこれからだ。そうおもっていても、信号は黄色に変わる。前をゆく乗用車やトラックが速度を落とすのに合わせて、春高もブレーキをゆっくりと踏む。
 十六年前、七五三詣での帰りに春高は振り返った。行ってきたばかりの神社の鳥居がただ立っているだけだった。あかんよ、と母親に注意されてすぐに正面をむいたけれど、あのとき振り返らなければなにも失わずに済んだかもしれないと、春高はよく考える。

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