いっとう大事なものを。
たとえば、右の手に繋いでいた温度といったもの。
春高を呼んだ声の主、中年の男は対向車線がわにいて、歩行者信号が青になると横断歩道を渡り、春高のすぐそばまで駆け寄ってきた。春高は後方を確認してからジャイロアップを歩道に寄せてブレーキをかけ、念のためにスタンドをおろす。
「治るってほんまなんか?」
ヘルメットのシールドをあげるなり、男は息切れでぜえぜえとうるさい呼吸をこらえながら問いかける。
「……まあ、はい」
「くれへんか、それ。親父が罹ってもうて、持病もあるさかい危ないんや」
「あしたお伺いします。このあたりに――」
お住まいですか、と尋ねようとした矢先に、春高は男に胸倉を掴まれる。嫌な予感は的中したらしかった。
「あした!? なにほざいとんねん、親父の命がかかっとんのやぞ!? その花くれや」
「これは先約があるんです」
「知るかボケ。ほかの人間はごまんとおるけどなあ、おれの親父はこの世でひとりしかおらんのや」
態度を急変させた男にシートから引きずり降ろされながら、ちゃんと停めといてよかった、と春高はその場で横転することなく佇んでいるジャイロアップの無事にほっとしていた。あれが故障してしまうと配達どころか家に帰ることもできない。
男は春高を歩道に突き飛ばすと、ジャイロアップに積んでいたガーベラをすべて抱えて走り去っていった。
春高屋が運ぶ花にはまだ新薬の見つかっていない流行り病を治す力があるというのは百年以上も前から言い伝えられていて、しかし、このようなひどい強奪に遭った春高屋は今回の春高がはじめてかもしれない。過酷な仕事やで、お父ちゃん、これの時期はずっとぐったりしとったやろ。ふと、母親との会話が脳裏によぎったけれど、うんとちいさいころに亡くなった父親のことを春高はちっとも憶えていない。憶えていないからその不在を悲しんだこともない。
配達するものを失った春高はジャイロアップにまたがり、一度帰宅することにした。自宅まで戻ってきたころには陽が沈もうとしていて、白米が炊ける生っぽいにおいが外まで漂ってきていた。
「ただいま」と春高が台所に顔をだすと、母親は目を丸くした。
「ああ、おかえり。えらい早いやんか」
「花、駄目にしてもうてん。夕飯食うたらもっかい行くわ」
春高は目的地に着くまえに花を奪われてしまったことをあえて言わなかったけれど、母親はなにかあったことを察しつつ、そうか、と相槌を打った。
「つぎは気いつけて行くんやで」
「うん」
「あんた、せっかくこの時間に家おるんやしせっちゃんにごはんあげたって」