小説

『鬼のグレーテル』みきゃっこ(『ヘンゼルとグレーテル』)

 おまえ、あたしは魔女じゃないのにってずぶ濡れで泣きながら母さんに豆ぶつけてたんだよ、風呂に落ちた後。うそ、そこまで覚えてなかったよ、そんなひどいことしたの、わたし。わたしがグレーテルだもん、魔女じゃないもんって泣きながら母さんに豆ぶつけてたよ。怒って顔真っ赤にして、おまえの方が鬼みたいだったの覚えている。
 よく覚えていないけれど、想像してみて笑ってしまう。鬼のようなグレーテル。兄の口からグレーテルという名前が出たのも何だかおかしかった。
 子どもを捨てる親なんて、なんてひどいのだろうと絵本を読んでもらって思っていたのも思い出した。子どもがいなくなってからげっそり痩せてしまってやっぱり家族一緒がいいと泣いて謝ったお父さんとお母さんのことを子どものわたしは許せなかった。
 でも今考えるとあれは子どもが親を捨てる話だったのかもしれない。親離れをする話だったのかもしれない。お菓子の家は誘惑と罠ではなく、芽生えた欲望のかたまりだったのかもしれない。
 まだそんなものを知らなかったわたしは自分が純粋なグレーテルだときっと信じていたのだろう。我儘に泣き散らかして母に豆をぶつけるほど甘えられる子どもだったのだ。急にさみしさが降ってきた。
 食べずにそのままにしていた恵方巻きは、まだ冷蔵庫のなかにある。きっともうかたくなって食べられたものではないだろう。豆撒きも出来なかったので、娘が幼稚園で作った鬼の面もそのままキッチンのテーブルに置いたままだ。
 明日の朝、目を覚ましたらきっと娘は豆撒きをしていなかったことを思い出して、夫にやりたいとせがむだろう。今年はわたしが鬼の面をかぶろうかと思う。来月の雛まつりにはお菓子の家でも作ろうか。
 いつかあの子がそういうわたしとの思い出を忘れてしまっても、今夜のように不意に何かを思い出すときがくるかもしれない。
 落としてきたパン屑がすべて鳥に食べられてしまっても、歩いた道はきっと忘れない。

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