小説

『バス』高平九(『蠅』横光利一)

 ルイはそう言って千円札を自販機に入れた。
「彼がね。妻とは別れるから今後のことを相談しようって。それにしてもこんな田舎で逢わなくてもねえ。サスペンスドラマならあたし間違いなく彼に殺されるパターン」
 ルイはそう言って笑った。日陰は冷えるからだろう。熱い缶コーヒーで両手を温めていた。みさきは炭酸飲料を飲みながらルイを追いかけて温泉地にもマスコミが押し掛けて来たら困るなと考えていた。
 雅彦への恋心などとっくに覚めている。それでも3年我慢した。だがもう限界だった。ネット社会は便利だ。馬鹿なあたしでもネット検索すればマネーロンダリングのやり方も、国外に大金を持ち出す方法も分かった。2億円ぽっちでは一生安楽とはいかないけど、しばらくは海外で気楽に生活できる。それに2年後にあたしが金を持ち逃げしたと分かっても、雅彦はけして騒ぎ立てることなどできない。
「いい。万一、あたしが殺されちゃったら、あなた警察にちゃんと言ってよね」
 ルイがみさきの目を覗きこむようにして言った。みさきはうんと頷いたが、もちろんそんな証言などする気はない。缶ジュース1本で証言しろですって。みさきはルイの甘い考えに呆れた。
 バスが上り坂をよいしょとばかりに越えてターミナルに入ってきた。乗客は4人だけだった。
 橘ルイは指定席にでも着くように最後部の座席を独り占めしながら、半ば彼が「妻と別れるから結婚してくれ」と懇願する甘い未来を想像し、また半ばは彼が邪魔な自分を殺してこの山中に埋めるという残酷な未来を想像していた。そして、どちらにしても自分がヒロインとして輝く2つの魅力的なストーリーにうっとりした。
 みさきはバスの中ほどの一人がけの席に座った。
 通路を挟んだ反対側では女の子が靴を脱ぎ座席に膝をついて窓の外を見ていた。その後ろで我が子を見守る母親。彼女は実家の母がどんな顔で娘と孫を迎えるのかを考えていた。やがてはこの子も、かつて自分がしたように、こんな田舎に連れて来た母親を憎んで家を出て行くにちがいない。でも、この子を育てるには実家を頼るしかない。なんで死んだのよ。最後は決まって亡き夫への思慕と憎悪が綯い交ぜになった。
 バスは山道を峠に向かって蛇行して進んだ。みさきの側の窓には崖が迫っていて、時折伸びた雑草が窓ガラスを打った。反対側の窓からは深い谷を隔てた山々にいくつもの白やピンクの山桜が見えた。
 みさきは温泉地の村に着いてからのことを考えた。まずは今夜、宿を抜け出して祠の床下の金を掘り起こす。そして明日になったら掘り起こした金を郵便局と宿の宅配便、それから手持ちのボストンバッグの3つに分けて送る。一時的に金を保管するために専用のアパートを借りてあった。そこを拠点にして、前もって現地に赴いて契約した海外の銀行口座に少しずつ送金する手筈だ。みさきは明るい未来を想像して微笑んだ。
「ヘリトプター!」
 という子どもの声がして、みさきは反射的に顔を伏せた。おそらくルイも後部座席でその美しい顔を背けているに違いない。
「可愛いヘリコプターだね」
 窓の外を盗み見ると、白と黒にカラーリングされたドローンがバスに並走して飛んでいた。黒い目玉のようなカメラがはっきり見えた。バスの中に視線を戻そうとしたとき、いきなりの衝撃が襲った。危うく椅子から落ちそうになるのを何とか椅子の手すりにしがみついて堪えた。

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