小説

『バス』高平九(『蠅』横光利一)

 雅彦とみさきは上司である経理課長の軽部が会社の金を横領しているのを知っていた。軽部は毎年正月休みにマカオのカジノで遊ぶことを唯一の生き甲斐にしていた。その資金として政治家への賄賂を少しずつ抜いていた。小さな綻びが大きな穴になるのにそれほどの時はいらない。着服した金の総額は10億円に達していたはずだ。小心な軽部は賄賂の着服が発覚することをひどく畏れた。気付いた雅彦は次第に憔悴する軽部の様子を計りながら、2億円の横領をみさきに持ちかけたのだ。みさきは雅彦の指示したとおり、軽部が会社の金も横領したようにみせかけて2億円の金を手に入れた。軽部の自死によって上層部はやっと横領にも気付いた。だが、その金が賄賂の一部であることを隠蔽することに必死で、みさきが軽部のせいにした横領のことまでは気にしなかった。
「いいか。これから俺たちは赤の他人だ。5年経ったらここに来て金を掘り出し東南アジアでマネロンしてよ。後は贅沢に生きようぜ」
 そう約束をして別れたきり3年間一度も雅彦とは会っていないし、連絡もとっていない。彼は今でもみさきが自分に恋していると自惚れているに違いない。
「ねえ、ママ。おばばのうちにパパ来ゆ?」
 幼子の声がみさきの中の雅彦の声をかき消した。
「そうね。マミに会いに来るよ、絶対に」
 母親の声がかすれた。みさきと目が合うとまだ30歳になるかならないかの母親は軽く会釈をしながら目尻を指で拭った。
 どんな馬鹿でもこの母子がどういう状況かは分かった。最近、夫であり父親である人を亡くして、田舎の親を頼ろうとしているのだろう。
 みさきは3年前に雅彦の子を宿していた。だが結局言えなかった。また馬鹿呼ばわりされるに決まってる。あの子を産んでいたらちょうどこの子くらいになっていたはずだ。下腹部が疼いた。居たたまれなくなったみさきはベンチを立って駅舎の自動販売機の方に歩いて行った。
「ねえ。やっぱり分かった?」
 自販機の前で飲み物を選んでいるみさきにサングラスの女が声をかけた。
「さっきのドローン見たでしょ。あれってあたしのこと探してるんだと思うの。それにしてもマスコミってしつこいよね。完全に巻いたと思ってたのに……あんた、まさかマスコミの人?」
 みさきがかぶりをふると、
「そうよね。どう見てもただのベテランOLさんって感じ。ねえ、あたしのこと知ってるよね」
 女の細い指が大きなサングラスを下げた。若手女優の橘ルイ。列車のなかで暇潰しに読んだ写真週刊誌に妻帯者の中堅男優と沖縄のビーチで戯れる写真が掲載されていた。
「何飲む。御馳走する」

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