小説

『バス』高平九(『蠅』横光利一)

 小さな影が羽音とともによぎった。泉水みさきは思わず空を仰いだ。気温はまだ低いが空は晴れ渡っていた。それを見つけたみさきは慌てて顔を俯けた。
「ママ。ヘリトプター」
 2歳くらいだろうか、女の子がベンチの上で足をぶらつかせながら傍らの母親に言った。黄色い帽子が可愛い。
「そうね。パパが乗ってるのかもね」
「行ったった」
「行っちゃったね」
「また来ゆ」
「うん。また来るよ、きっと」
 機械的な羽音が消えたのを確信してから、みさきはゆっくりと空を見上げた。ドローンの姿はもうどこにもなかった。
 ローカル線の無人駅ではみさきを含めて4人の客が降りた。切符の回収箱の脇に立っていた車掌は驚いた顔をした。きっと一度に4人が降車するなど珍しいことなのだ。駅舎の前のバスターミナルには錆びたベンチが一台あるだけで他には何もなかった。ただ早春の日射しがゆっくりと雑草の生えた空き地を温めていた。
 母子連れとみさきはベンチに腰掛け、サングラスの女は1人離れて、駅舎の日陰で野良猫の写真を撮っていた。
「ドローンの意味を知ってるか? ハチの羽音のことなんだぞ」
 3年前の夜、須藤雅彦が言った。雅彦はそういう雑学が得意でよく同僚たちに吹聴した。高校中退のみさきは教養についてコンプレックスがあったせいか、いつの間にか雅彦に恋をしていた。
 ここから山をいくつか隔てたところにある鄙びた温泉地で、2人は神社の祠の床下に穴を掘っていた。2億円の現金が入ったバッグを埋めるためだ。
「あたしたちを監視してたんじゃないよね」
 夕方、金を埋める場所を物色していた2人の上をドローンが何度か通ったのをみさきは気にした。
「バーカ。そんな訳ないだろ。ドローンてのは飛行場の近くとか人口密集地じゃ飛ばせないからよ、それで暇な連中がこんな田舎で遊んでんだよ。第一よ、俺たちが2億円を持ってるのを誰が知ってるって言うんだ。クッソー、蜘蛛の巣だ」
 スコップで掘った土からは湿った匂いがした。金が入ったバッグを胸に抱えながら、それはきっと罪の臭いだと思った。みさきが向けていた懐中電灯の明かりが雅彦の手元からずれた。
「ちゃんと照らせよ、バカ。何びびってんだ。大丈夫だって。課長が死んじまったからよ、横領の総額がいくらなんて気にする奴はいねえよ」

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