ふと顔を上げると、先ほどまでそばかすの少年がいた向かいの席に、今度は見知らぬ青年が座っていた。整った顔立ちに、スラリと伸びた手足。寄越された笑顔はまるでお手本のように美しい。
「僕、秋がいっとう好きなんです。全てが曖昧で、許されているような、受け入れられているような気分になるので。」
りんとした声で青年はそう言葉を紡いだ。心の中で小さく首を振る。そんなことない。秋も、春の桜も夏の入道雲も冬の雪だってぜんぶ、私たちのことを受け入れてはくれなかった。刺さる視線、差される後ろ指。嘲笑、困惑、侮蔑の声。彼とこうして手を繋ぐことさえ、季節は許してくれなかったのだ。
ごとごとごとごと電車が揺れる。窓の外に咲くりんどう。完璧な顔で微笑む青年は、いったい何を秋に許してもらいたかったのだろう。
「あなたはどこに向かってるんです。」
青年が彼に問う。先ほど取り出した鼠いろの切符をもてあそびながら、彼は気まずそうに口を開いた。
「どこまでも、と、思っていたのですが。この切符では終点までしか行けないようです。」
「ああ、あなた、でもあなたは、どこまでも行かなくてはならないのではないですか。」
視線がこちらに移された。けれども何故だか青年と目が合うことはない。まるで私のことが見えていないかのような態度に、不安が滲んだ。手に力を込める。体温が伝わる。大丈夫、私はちゃんと彼の隣にいる。
「ええ。彼は僕の大切な人なのです。二人でどこまでも遠くへいこうと、誓い合った人なのです。」
「それならばどうして、あなただけが。」
「恐かった。耐えられなかった。彼の存在が、この世界から消えてしまうことが。」
ああ。二人は何を言っているのだろう。耳を撫でた柔らかいテノールと、ほとんど消えかかっていた街明かりを思い出す。私と彼は一緒にいこうと誓ったのだ。私たちを拒絶するこんな世界なら、いっそのこと、と。
青年がかくしから緑いろの紙切れを取り出した。四つに折られたはがき大のそれが何なのか、私にはわからない。けれども彼は隣ではっと息を呑む。横から覗き込んでもおかしな文字が十ばかり書いているだけで、てんで意味不明なその紙切れに、どんな価値があると言うのだろう。問いかけようとして口を噤んだ。彼は呼吸さえ忘れてしまったかのように、吸い込まれてしまうほどに、ただ黙って青年の持つ緑の紙を見つめている。
「これ、は。」
「あなたならばお分かりでしょう。これはどこでも勝手に歩ける通行券です。こんな不完全な幻想第四次なんて抜け出して、どこへでも。」
青年が微笑む。それは先程までとは違って、随分と不器用な笑顔だった。不器用で、不格好で、ひどく優しい笑顔だった。
電車が揺れる。窓の外が暗くなる。耳鳴りみたいに空気を裂く音。蛍光灯の明かり、彼の横顔。
あなたがたの幸を祈ります、と声がした。その声が青年のものなのか、誰か別の人の発したものなのか、はたまた聞き間違いであったのかさえ分からないまま、私は急激に襲ってきた眠気に身を任せて瞼を閉じた。
肩の辺りをゆさぶられる感覚で目がさめる。それは海の底に降り積もった雪が、魚の吐く泡に乗って浮かびあがってきたかのように、柔らかな目覚めだった。