小説

『星空列車と夜』亀沢かおり(『銀河鉄道の夜』『よだかの星』)

 怖いか、と彼は尋ねた。柔らかいテノールの響きが耳を撫でる。他に乗客は見当たらないが、なんとなく声を出すのも憚られて、返事の代わりと重ねた手に力を込めた。すっかり溶け合った体温が愛おしい。
ごとごと音を立て不規則に揺れる窓の外に、街明かりはもうほとんど無くなっていた。随分と遠くまで来てしまったものだ。数時間前まで二人で過ごしていたアパートの一室は、幻だったのではないかと、錯覚しそうになる。
「ごめん。」
 苦しげな様子で絞り出された言葉に首を振った。これは二人で望んだことなのだ。彼が謝る必要なんて、どこにもない。

 甲高い声を上げながら列車がゆっくりと進みを止めた。どうやら駅についたらしい。扉が開き、外の空気が流れ込んでくる。その冷たさに思わず身震いをした。人工的な暖かさに満たされていた空間が、外気の寒さをより鮮烈に感じさせる。
「ここ、いいですか。」
 顔を上げると一人の男の子が立っていた。鼻周りにまだらに散らばるそばかすが目を引く、小柄な子。空席の目立つ車内を見渡しながらも、断る理由は浮かばない。向かいのシートが重みでわずかに沈む。
「どこまで行くんです。」
 黒曜石のようなまあるい目を幾らか細めながら男の子は尋ねた。彼が横で曖昧に笑う気配がする。無理もない。だって目的地なんてもの、私たちには、もう。
「許されるならば、どこまでも。」
 ビロードのような耳触りのテノールが質問に答える。男の子は怪訝な顔をするでもなく、ただ「ああ。」と微笑んだ。彼の言葉に何かを察してくれたのだろうか。それとも。
 不意に一際大きく列車が揺れて窓の外を完全な闇が覆った。壊れたテレビのように真っ黒なそれに映る、蛍光灯の明かり。彼の横顔。向かい側のまだらなそばかす。浮かび上がる車内の景色をぼんやり眺めた後、ああトンネルに入ったのだ、と、数拍遅れで気がついた。車体が空気を切る音が、現実を私たちから遮断する。
「きみはどこにいくの。」
 どこに。言葉の響きを確かめるように、男の子は彼の言葉を反復した。どこに、どこに。伏せられたまつ毛を白んだ光がちらちら照らす。
「ぼく、星になりに行くんです。」
「星に?」
「ええ。」
 自身の答えに満足げな様子で頷いたその首筋に、微かに赤黒い痕が見える。幼さの残る顔立ちには到底似合わぬ鬱血痕。未成熟の体。妙に大人びて見える、黒色の瞳。
「こんなぼくでも、お星さまになれば小さな光を出すでしょう。そうすれば冷たく暗い夜空を、照らすことができるでしょう。たとえそれが幽かな明かりであったとしても。」

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