小説

『凍える夢』和織(『怪夢』)

 氷の床の上に横たわる血まみれの女の死体を、樹は見下ろしていた。ああ、自分が殺したのだった。そう思ったとき、視線を感じて振り返ると、そこには黒い男が立っていた。ああ、見つかった。と樹は思った。「黒い探偵だ、逃げなければ」と。そして、氷の上を、一目散に駆け抜けた。黒い探偵が、その後を追ってくる。世界は冷たく、透明と白でできていた。何も隠すことのできない世界。自分の罪は、とてもクリア。黒い探偵は徐々に速度を上げる。それをときどき振り返った。静かに近づいてくる男から、ものすごい執念が感じられた。でも、自分の方がずっと身軽だ。樹はそう思った。走り続ければきっと逃げられる。そう、思っていた。しかし、目の前に突然崖が現れた。絶壁だ。先はない。樹は速度を落とすことができない。足が滑る。止まれない。体が倒れ、半回転し、横目に、じっとこちらを見ている黒い探偵の姿。それが、消えていく。樹は落ちて行った。どこまでも、どこまでも。

 思い切り息を吸い込みながら、樹は目覚めた。動悸が激しい。落ちていく感覚が、まだ体に張り付いていた。
「樹?どうしたの?・・・・大丈夫?」
 隣で女の声がした。それから、リモコンの音がして、電気がついた。その女を目にして、樹はとっさに体を起こした。それは、夢の中で死んでいた女だった。自分が殺した女だった。体が震え、後ずさりながら、樹はベッドから落ちた。
「ちょっと、樹」
 女が近づこうとすると、樹は逃げだし、洗面所へ駆け込んだ。どうしてあの女が自分と一緒にいるのだろう。考えようとしても、考えることができない。何もわからない。だた、とても恐ろしい。
「なんで・・・・・」
 そう呟いて、ふと、そこにある鏡を見た。息が止まった。鏡の中に、黒い探偵がいた。こちらを、じっと見ている。ああ、まだ終わっていない。樹はそう思った。自分はまだ、追われているのだ。

 

「気分はどうですか?」
 誰かが入ってきて、そう訊いた。樹は今、小さな部屋の中にいた。あの、氷の世界に似た、真っ白な部屋だった。顔を上げて見えたのは白衣を着た男で、その顔を見て、樹は目を見開いた。男は、自分と同じ顔をしていた。
「・・・あんた、なんで俺の顔をしてるんだ?」
 樹の質問に、白衣の男は目を細めただけで、何も答えない。そこにいるのは、あの黒い探偵だ。間違いなくそう感じた。けれど、そいつは自分の顔をしている。どうして?と思いながらその顔を眺めているうちに、樹は、全てがわかったような気がした。自分を追っていたのは、他ならぬ自分だったのだ。忘れたフリをしたところで、自分は自分の罪を知っている。追うことは、止められない。もう、諦めよう。樹はそう思った。諦めて、罰を受け続ける為にここに留まろう。あの女を、殺した罪の。

1 2 3 4 5