小説

『凍える夢』和織(『怪夢』)

 相模が病室から戻ると、待っていた女性がスッと姿勢を正した。それを見て相模は、彼女の前に座りながら、こう言った。
「気丈に振舞う必要なんてありませんよ、特にここでは」
 女性は肩を落とし、短く息を吐いた。彼女はこの病院の患者である小山田樹の妻、美佐子だ。
「はい・・・そうですね」
「やはりご主人の心は今、ご自分の世界から離れてしまっています。そしてどうやら、僕の顔が、ご自分の顔に見えるようです」
「え?どうしてそんな・・・」
「ご自分を責める気持ちが、今まで以上に高まっているようです。慎重で誠実な方ですから、少しづつ時間をかけてピークまで来てしまった、ということなのかもしれません。ちゃんと気づいてあげることが出来なくて、申し訳ない」
「いえ、私が頼りないのがいけないんです。一番最初に解らなくちゃいけないのに・・・」
 美佐子は顔をしかめ、首を振った。彼女の夫である小山田樹は、一年ほど前からこの心療内科に通っている。樹は、昨夜突然目覚たかと思うと、錯乱し、自分の妻のことがわからなくなっていた。薬を打って休ませ、大人しくはなったが、症状が良くなる気配はない。
「黒い探偵」
 美佐子は呟いた。樹の見る氷の世界の夢の話は、もちろん相模も知っている。樹が八歳のとき、彼の母親が自殺した。雪の日に、母親はマンションのベランダから飛び降りたのだ。樹は、それを目撃してしまった。精神的ショックを受けた樹は、あの氷の世界の夢を見るようになった。夢はいつも同じで、女を殺した後の状態で始まる。死んでいる女は、樹の母親だ。しかし夢の中では、顔は認識していても、樹はそれが自分の母親だとは思っていない。ただ、「自分が殺した」という事実だけがあり、黒い探偵に追いかけられる。そして目覚めたとき、樹は母親を救えなかった自分を、猛烈に責める。そのせいで彼は心に病を抱えたまま大人になった。それでも美佐子と出会ったことで回復し、年に何度かの通院のみで暮らしていたという。しかし、一年ほど前、彼の父親が亡くなったのをきっかけに、また症状がぶり返した。
「やはり、お父様が亡くなられたことから、まだ立ち直れないんでしょうか」
「・・・まぁ、あまりいい死に方ではなかったですから」
 美佐子は言った。樹の父は、事故死だった。自身の飲酒運転の末の事故だった。樹は「他人に危害が及ばなかったことが救いだった」と言い、葬式では一滴の涙も流さなかったという。
「もともとそれほど仲は良くなかったようで、性格が合わないと言っていました。でも、母親の死を共有していた唯一の人物が亡くなって、心細く感じた部分はあったと思います」
 美佐子は、相模には基本的になんでも話した。彼を信頼していた。今まで何人かの医者を見てきたが、相模が一番、「考えてくれる」と感じた。最も、その行為は彼にとって無意識であるようだった。相模は常に、本体がどこか遠くにあるような表情をしていた。思考はピンポン玉のように跳ねたり浮いたりしていて、離れたところから体を遠隔操作している。そんな感じに見えた。

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